*小学校、中学校の頃は、周囲の人間にニックネームをつけられたり、つけたりしていることが日常
茶飯事だった。
ゴリラ、クマ、ブタ、タコ・・・・などなど。小学校の先生にたいする<仇名>は、まるで動物園のよ
うだった。
中学に入ると、先生に対する<仇名>も、皇族の一人に似ているから<火星ちゃん>とか、ヘア
スタイルをみて<ベートーベン>とか、顔の照かりと吹き出物を見て<揚げパン>とか、小学生時代
よりは、多少知恵のついたニックネームの付け方になった。
我々の小・中学の頃は陰湿なイジメはなく、もっと腕力に頼る明快なものだったし、悪に対抗する正
義派もいたので、同級生へのニックネームの付け方も根深い暗さは少なかった、と思う。
*子どもの頃は、オトナや同級生を<ひと目>みて、<直感>でその人物の<誇張>を仇名としていた
と思う。大人になると、理論的には<第一印象>という言葉の形容詞になるだろうか。
*しかし、あの頃は<動物的なカン>と言おうか<本能>と言おうか。
そのニックネームは、ものの見事にその人物の<的を射ていた>と思う。
長じてオトナになったからは、皆一様に、その人物への嫌悪感や憎しみ、恨みが先にたつのか、
電車の中でも「○○部長は」「○○課長は」といったサラリーマン諸氏や、OL嬢の「○○さんはね」
「○○クンはね」といった、名前をズバリ発言した悪口を電車内でしているのを耳にすることが多い。
*思春期の頃のニックネームの付け方は、貴重だ!とことあるごとに思うことが多い、今日この頃。
オトナになると、理論が先走り、また感情も先走り、好ましくない人物に対するワン・クッション置くよ
うな余裕のある心持ちが出来づらくなってきているのか、前述したような直裁的なものが多い。
*あの織田信長が<猿>と秀吉を呼び、<禿げ鼠>と明智光秀を呼んだのは、本人にしてみれば愛称
のつもりが、そのとおりに受け取られている人物と、内心に暗い炎を燃やさせる結果になった、ことをみる
と、ニックネームも二通りの取り方ができる。(もっとも信長が確信犯で、秀吉と光秀をあからさまに呼び
わけていたのなら別ですが)
*恨みと嫌味を込めた陰湿なニックネームは、なんの発展もユーモアも産みませんが、ワン・クッション
おけるような批判を込めた、4コマ時事マンガのようなニックネームの付け方をもう1度思い出したい
と思います。
*それにあれは<洞察力>の問題ですから、本能を磨くのにも役に立つでしょう。
*童話の「裸の王様」は言うまでもなく、二人の詐欺師から「自分にふさわしくない人や、馬鹿な人物
には見えない布」と語られて、<素晴らしい衣装>をオーダーします。
王様も含め、イエス・マンだらけの側近や専制君主のものを言うのがコワい領民達は、その素晴らしい
見えない衣服を見えるとして褒め称えますが、子どもだけが正直に発言するんですよね。
*そう。ニックネームのつけかたも、何者にもとらわれないピュアな心でつけたい、と思っています。
*「王様は、裸だ!」
「王様は、裸だ!」
「王様は、裸だ!」
*<裸の醜い王様>が、図太くも厚い面の皮を晒して闊歩する現代に、この童話を思い出しました。