深慮遠謀の覇王(徳川家康)其の2 | テンカス・気まぐれ1人旅

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城をはじめ、名所、旧跡巡りが好きです。
最近は歴史にも興味があり、いろいろ調べ
気になった所をまとめ載せていきます。
よかったら覗いてみてください。

三河の子倅・其の2!!


しかし、運命は、

永禄三年(1560)彼のために全く別の方向に、

新しい路を展開してくれた。


この年今川義元は大軍を率いて上洛し、

天下に覇を唱えようという野心をおこした。

そのために先ず、尾張に頑張っている

織田氏を叩きつぶさなければならない。


義元は元康を呼んでいった。

「お前が先鋒になって織田勢を討ち破れ。

そうすれば、岡崎城も三河領も、

お前に返してやろう」

元康は勇躍して出陣し、

まず織田勢に囲まれている今川方の

大高城の支援に向かい、城に入った。


ちょうどこの時、

桶狭間まで進出していた義元が、

織田信長の紀州を受けて、

簡単に首を落とされてしまったのである。


今川勢は、大混乱に陥り、

秩序もなく駿河へ逃げて帰ってゆく。

大高城を守っていた元康だけは、

兵を整えて、

堂々と城を退去していったが、

岡崎までやってくると、

城を守っていた今川兵は一人残らず

駿府へ逃げ去っていて空っぽであった。


「ほう、この城は捨てられてしまったらしい。

捨て城なら、拾うても差し支えなかろう」

元康は笑って、岡崎城に腰を据えた。


父弘忠の死後十一年でようやく、

元康はこの城を自分の手に奪回した訳である。

元康は岡崎城を守って、織田勢と戦い、

積極的に各地の城を攻めて、

これを陥れた。


「三河の子倅め、やりおる」信長は十九歳の

青年武将元康の素晴らしい才能に驚嘆した。

元康の叔父で刈谷城主の水野信元は

織田方に属していたが、信長と

元康の両者に向かって、

手を握ることを進めた。




…降伏ではなく、対等の立場で和を結び、

同盟関係を結ぶならば、良い…

今川義元を討って威望(いぼう)隆々としている

信長に対して、元康は一歩も引かず、

そう主張した。


織田信長との同盟が締結された。

この同盟は信長の死に至るまで、

ゆるぎなく続いた。


家康が…律儀な人物…という評価を

得たのは当然であろう。

反覆常なく、昨日の友は今日の敵となる

乱世において、家康は一度結んだ同盟を、

最後まで守り通したのである。


織田と提携した元康の勢力が、

急速に強化されたことは言うまでもない。

三河の諸大名は続々と、

元康の下に帰属してきた。


元康は、家康と改めた。

元の字は義元から貰ったものだ。

今川氏と手を切った以上、

改名は当然のことであった。










人物探訪・日本の歴史(暁教育図書発刊・南条典範夫氏執筆)ヨリ