深慮遠謀の覇王(徳川家康) | テンカス・気まぐれ1人旅

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城をはじめ、名所、旧跡巡りが好きです。
最近は歴史にも興味があり、いろいろ調べ
気になった所をまとめ載せていきます。
よかったら覗いてみてください。

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0.7mm折鶴


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12mm折鶴アート



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三河の子倅!!



足利氏第十代将軍義則の頃、

どこから来たとも知れない

徳阿弥という坊主が、

三河国にやってきた。


どこか見どころがあったと見え、

賀茂郡松平村の郷士松平信重の娘の

婿として太郎左衛門千親氏(ちかうじ)と名乗らせた。


この親氏から九代目が松平元信、

のちの徳川家康である。

徳川氏は公的には、

新田義重の子孫だと称しているが、

放浪の坊主の子孫なのである。


だが、祖先が何であろうと、

家康という人間の値打ちは何の関係もない

ということだ。


親氏から代々、戦国の風雲に乗じて

近隣の土地を攻略して領土を広げてゆき、

七代の清康の時には岡山城を本拠として、

ほとんど三河一国を手に入れようとしていた。


ところが、この清康が織田信秀(信長の父)と、

森山で対陣中、家臣に殺された。

そして奇妙のことに清康の後を継いだ弘忠も、

ほとんど同じような状況の手で、

家臣に殺されている。


城主を失った岡崎城は、今川義元が占領し、

弘忠の嫡子竹千代は、

今川義元の居城のある駿府に、

人質として連れ去られた。


竹千代(後の家康)が、駿府に移ったのは八歳の時、

天文十八年(1549)十二月二十七日である。


ここで十一年の間、

質として肩身の狭い生活を送った。

この生活は、家康に、驚くべき忍耐と、

常に合理的判断を忘れない冷静さとを、

第二の天性として植え付けられた。


父と城とを同時に失ったことは、

戦国の厳しさ冷酷さ、弱小国の悲哀を、

彼の心の底に思い知らせたことだろう。


堅忍、剛毅(ごうき)質実、沈着・

克己、勇断…これらの資質を一身に

兼ね備えている者は少ない。

家康がこのすべてを身に

着けることができたのは、

少年時代の不遇な人質生活の

おかげだったと言ってよい。


とすれば、

外面的には不幸に見えるこの時代も、

家康のためには必ずしも不運とばかりは

言い切れないであろう。


今川義元は、家康が十五歳になると、

元服させて元信(次いで元康)と名乗らせ、

一族の関口親長の娘(後の築山殿)の婿とした。


このままゆけば、

元康は完全に今川氏の一部将として、

生涯を決定されてしまったことだろう。








人物探訪・日本の歴史(暁教育図書発刊・南条範夫氏執筆)ヨリ