加藤清正・其の11 | テンカス・気まぐれ1人旅

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加藤清正・其の11


このように領内整備に努め、

対外的には徳川幕府に対して

保身の術を弄していた清正だが、

秀吉の思義に対する

誠実さは忘れていない。


秀頼と家康の間にはいって苦労している。

慶長十六年三月二十八日、

清正は浅野行長などと秀頼を守り、

淀君派の反対を押して二条城において

家康との会見を済ませている。


清正は安堵したのだろう。

帰国の途中病に倒れ、


六月二十四日その生涯を終える。

五十歳であった。


『清正記』によれば遺言は具足をつけ、

太刀かたなをはかせて棺に入れてくれという。

来世の軍神になると言い残し、

その通りに中尾山に葬られた。


その子忠弘は清正ほどの

器量はなかったと見えて

寛永九年(1632)に領土を没収され、

その後庄内(山形県)で死ぬ。


その子の行方は定かではない。

加藤家の肥後支配は二代で終わっている。


また、度重なる城普請のため、

清正は築城の名人伝えられているが、

これは清正自身に才能があったのではなく、

部下に人を得たからであった。


森本儀太夫の名がひろく知られている。

また全般に譜代大名よりも、

戦歴の多い外様大名の方が

築城の知識を持っていた。


これが誤り伝えられて清正その人が

名手のように言われているのであろう。

誤解を避けるために付記する。
















統一の覇者(武田八州満執筆・暁教育図書発行)