妻が突然失踪してからというものの、江藤の人生は大きく狂った。仕事が家庭を犠牲にしてきたことは分かっていたが、蒸発されるとは思っていなかった。身の回りのものを持っていっていることから事件性はなく、明らかに自らの意思で自分と娘を捨てたのだ。以来、仕事のペースをかなり落とした。異動願いも出したのだが、それには彼は優秀すぎた。もう少し待てといわれれば、断ることはできなかった。実際は、外事課にいながら主に事務処理を行う担当に外されたのだが、いざとなれば使いたいという、上司の思惑が透けてみえた。実際、妻が蒸発するまでの江藤は、外事課でトップクラスだったのだ。その自分が現在、細菌兵器疑惑についての情報を内部から得ていないということは、警察はそこまで重要視していないか、知らなかったかのどちらかとなる。江藤には、どちらが真実なのかを確かめようと思った。
コートを羽織って外に出た。長い一日になりそうだと思った。
「会社」に到着するとまず、江藤の上司である大島の部屋に向かった。大島は外事課長でキャリアのエリートだったが、江藤らノンキャリ組と似た雰囲気をまとっている。すなわち公安警察に必要な、つかみどころのない容姿である。職務柄、超法規的な処置をとることもある部署であるが、尾行や内偵など日常茶飯事のため、課員には「目立たない」という素質が求められる。大島はまさにその「目立たない」素質を内外で十二分に発揮している男だった。
「警視総監から、呼び出しをくらいましたよ」
「課長、いいかげんそのお言葉遣い、改めていただけませんか」
「なに、貴殿へのリスペクトからですよ。他の部下にはそうしていないんだから、いいでしょう」
額面通りに受け取ればけがをする。この男はのっそりとした顔をして平然とトリガーをひくタイプだ。うまくかわさねばならない。特にこのタイミングでは。
「それで、どうだったんですか?」
「ああ。どうやら今回の事件は、完全に巻き込まれてしまったようですね。当事者ではなかったと」
「それはそうでしょう。現代日本で細菌兵器を作っているなんて、狂気としかいいようがない」
「オウム事件をお忘れですか?」
忘れようにも忘れられない。公安警察の黒歴史に他ならない。徹底マークをしていた教団だったが、よもやサリンガスを生成しているとは想像もしていなかった。あれ以来、警察はカルト集団を徹底的にマークし、あの悲劇が行われないよう努めてきたのだ。だからこそ、日本が当事者などありえないと江藤は思っている。大島は、首と肩を回したあと、江藤の目を見据えた。
「記事は当たらずも遠からずってところらしいです。
韓国と中国は今探り合いをしていますが、怖いのは、とばっちりですね。場所が場所だけに」
「日本がやった、とネガティブキャンペーンに使われてもおかしくないですね」
江藤の感想に大島は顔をしかめた。
「いつもならそうでしょう。しかし今回は死人が出ています。キャンペーンというレベルではすみません」
そのとおりだった。大島もこんなところで油を売っているほど暇ではないはずだ、と考えた瞬間、嫌な予感がした。
「この案件はわが外事課が動かねばならなくなりました。副総監が陣頭指揮をとるそうです。そこで、です」「江藤さん、復帰してください」
やはりそうきたか。
(つづく)
※応援コメント、どうぞよろしくお願い申し上げます。
※以下より、登場人物メモです。ネタバレのおそれがあるため、
以下閲覧注意です。
・的場英二:
S県警刑事局捜査1課所属。32歳。やせ形、筋肉質。伸長189センチ、体重78キロ。切れ目で高身長で一見もてそうな容姿をもつも、近寄りがたい空気を醸し出しており、友人も少ない。独身。ストイックで、禁酒・禁煙をしている。毎日8キロのジョギングが習慣。恋人は何年もいなかったが、事件を通じて恋に落ちる?
・江藤光太郎:
警視庁公安部所属。55歳。中肉中背。172センチ、体重75キロ。薄毛。妻恵理子は行方不明となり、失踪宣告した。娘の恵だけが生きがいだが、親子仲は悪い。粘着質のように仕事を進めることからハエ取り紙、公安部の略称「ハム」とあわせて「ハム取り紙の江藤」の異名をもつ。妻失踪後、仕事の情熱を失っていたが、今回の「福音の会」事件で妻が信者であったことを知り、情熱を燃やす。しかし、事件に配偶者が関わっている可能性があることから担当からはずされる(忌避)。それでも、独自に捜査を進めていたところ、的場と出会う。
・江藤恵
光太郎の娘。25歳。伸長162センチ、体重51キロ。父とは微妙な関係だが、父を嫌いなわけではない。目鼻立ちがくっきりしたかわいらしいタイプ。夜遊び・外泊を繰り返していたが、的場と知り合ってからは、真面目になる。母が失踪したことで、愛情に飢えている。自分のせいで失踪したのかと思いこんでいる。
・毒島寛
警視庁公安部所属。197センチ、体重87キロ。巨大な体躯。江藤とコンビを組んでいたが、江藤が担当を外されたことで、別の人間(中本重徳)と組む。しかし、江藤に同情する彼は、江藤から度々頼まれごとも、快く引き受けている。温厚で気さくな性格。
・杉本冴
S県警刑事局捜査1課所属。30歳、バツイチ。172センチ、54キロ。的場の仕事上の相棒。つっけんどんな対応しかしないのは、古傷が癒えていないからである。的場のことを気になりつつも、必死に一線をひく。女性と子供には優しい。
・綿貫博一
的場の同級生。眼鏡をかけており、ポッチャリ型。168センチ72キロ。おっとりした性格と信念を貫く強い面を併せ持つ。福音の会にハニートラップを仕掛けられた末、研究者としてからめとられることに。ゴモラソドムの開発者。研究者としてのエゴが人間としての良識を上回り、ゴモラソドムを開発してしまうも、良心に苦しみゴモラソドム消滅を図ろうとして組織に殺される。