「この案件はわが外事課が動かねばならなくなりました。副総監が陣頭指揮をとるそうです。そこで、です」「江藤さん、復帰してください」
やはりそうきたか。
予想していたことだったが、それにしても少し早すぎるのではないかと思った。江藤ははやる気持ちを抑え、冷静に「承知いたしました」と答えた。平面的に返したつもりだったが、気取られただろうか。大島だけではなく、会社全体に知られなくない感情だった。江藤は、じっと大島をみつめることでそれを耐えた。
「私の方から副総監には連絡しておきますから、10分後に集合です」
「副総監のお部屋に行けばよろしいのですね?」
江藤は大島の席を離れると、10分後に始まる打合せのための資料を揃えることにした。綿密に準備しておくのが江藤の信念で、それは隠居同然となっていた近年でも変わっていなかった。現場に立てば、臨機応変な行動が求められる。考えられる限りのシナリオを練っておいても、それ以外の道筋を即断せねばならないことなど多々あるのだが、そうしておかないと気が済まない。かつて大切な相棒を失ったことのある者にとって、その作業は懺悔にも似た儀式なのかもしれなかった。
この儀式は、しばし妻のことを忘れることのできる時間だと江藤は知っている。だからこそ、仕事を遠ざけ、妻の捜索に執念を燃やした。自分が仕事にかまけていた間、妻は何を思っていたのか。わが子を手放してまで、逃げたい衝動にかられたのはなぜなのか。自分には予兆を感じることができなかった。恵もそのはずだ。時々、妻を探しているのか理由を見つけようとしているのかわからなくなることがあった。妻が戻ってきたら、自分は喜ぶのだろうか?
気づくと約束の時間まで3分を切っていた。構うものか。あいつなど待たせておけばいい。江藤はそうつぶやくと、ふたたび目の前の資料をチェックした。
「遅いぞ」
「すみません」
江藤は少しも悪びれず謝罪を口にした。目の前にいるのは江藤宗一。日本最大の警察組織のナンバー2である不警視庁副総監であり、また江藤光太郎の実父でもある江藤宗一とは、妻の失踪を堺に微妙なひびが入ってしまった。それはきっかけに過ぎず、これまで積み重ねてきた違和感が決壊しただけのことだと、宗一の顔をみて改めて感じた。こいつは同じ会社の役員に過ぎない。しかし周囲はそうみてくれないのが面倒だった。
(つづく)
※応援コメント、どうぞよろしくお願い申し上げます。
※以下より、登場人物メモです。ネタバレのおそれがあるため、
以下閲覧注意です。
・的場英二:
S県警刑事局捜査1課所属。32歳。やせ形、筋肉質。伸長189センチ、体重78キロ。切れ目で高身長で一見もてそうな容姿をもつも、近寄りがたい空気を醸し出しており、友人も少ない。独身。ストイックで、禁酒・禁煙をしている。毎日8キロのジョギングが習慣。恋人は何年もいなかったが、事件を通じて恋に落ちる?
・江藤光太郎:
警視庁公安部所属。55歳。中肉中背。172センチ、体重75キロ。薄毛。妻恵理子は行方不明となり、失踪宣告した。娘の恵だけが生きがいだが、親子仲は悪い。粘着質のように仕事を進めることからハエ取り紙、公安部の略称「ハム」とあわせて「ハム取り紙の江藤」の異名をもつ。妻失踪後、仕事の情熱を失っていたが、今回の「福音の会」事件で妻が信者であったことを知り、情熱を燃やす。しかし、事件に配偶者が関わっている可能性があることから担当からはずされる(忌避)。それでも、独自に捜査を進めていたところ、的場と出会う。
・江藤恵
光太郎の娘。25歳。伸長162センチ、体重51キロ。父とは微妙な関係だが、父を嫌いなわけではない。目鼻立ちがくっきりしたかわいらしいタイプ。夜遊び・外泊を繰り返していたが、的場と知り合ってからは、真面目になる。母が失踪したことで、愛情に飢えている。自分のせいで失踪したのかと思いこんでいる。
・毒島寛
警視庁公安部所属。197センチ、体重87キロ。巨大な体躯。江藤とコンビを組んでいたが、江藤が担当を外されたことで、別の人間(中本重徳)と組む。しかし、江藤に同情する彼は、江藤から度々頼まれごとも、快く引き受けている。温厚で気さくな性格。
・杉本冴
S県警刑事局捜査1課所属。30歳、バツイチ。172センチ、54キロ。的場の仕事上の相棒。つっけんどんな対応しかしないのは、古傷が癒えていないからである。的場のことを気になりつつも、必死に一線をひく。女性と子供には優しい。
・綿貫博一
的場の同級生。眼鏡をかけており、ポッチャリ型。168センチ72キロ。おっとりした性格と信念を貫く強い面を併せ持つ。福音の会にハニートラップを仕掛けられた末、研究者としてからめとられることに。ゴモラソドムの開発者。研究者としてのエゴが人間としての良識を上回り、ゴモラソドムを開発してしまうも、良心に苦しみゴモラソドム消滅を図ろうとして組織に殺される。