こん、こん。
俺の背中に冷や汗が走る。
まさか、こんな時にあいつがやってくるなんて。
駅の改札をくぐり抜け、恐怖に煽られ引き返すにも帰宅するにもどっちつかずな距離感のタイミングで「それ」はやってきた。
最初は遠慮がちなノック音も、やがて間断なく容赦なく、俺の油断をうかがっているその様子は、まるでハイエナと呼ぶにふさわしい。
「それ」の名前は、う○こちゃん。
関西地方では可愛い愛称で呼ばれることもある「それ」の正体は、愛称とは真逆な下劣極まりない残忍な性格で知られる輩だ。
突如自我意識に目覚めたかと思えば、実にせっかちに自己を通そうとする。「自由にしてくれ」と。
俺は、社会人になればそんな我が儘は通らないましてや公衆の面前というものもある、少しは我慢せよと強く叱った。
だが「それ」は俺への主張をやめない。俺は歩くのもつらくなるほどに疲弊していった。
だが、歩くのをやめるわけにはいかない。勝手な暴走行為を許せば、「おし○こ」にも示しがつかない。この世の中はルールで成り立っていることを身をもって知らしめなければならぬ。俺は思いを強くした。
だが、「それ」の攻撃は激しさを増す。思わず俺は立ち止まり、括約筋をアスリート並みに締め上げて、必死に耐えた。
すると、「それ」はあきらめたようだ。さっきまでの激震が嘘のように消え去った。俺はラインダンスすら踊れるほどにまで恢復していた。
しかしその至福は長くは続かなかった。「それ」はカウンター攻撃を宣言するとかめはめ波に対するギャリック砲を繰り出してきたのだ。
俺は家路まで走ることもできず、一気に追い込まれた。そこで、大きな決断に迫られる。
俺はやむを得ず、瞬間的に弛緩させて和平交渉を試みた。多少の流血は致し方ない。この戦いを終結させることが一番の目的とするほか、俺に選択肢は残されていなかった。
摺り足ながら、少しずつ家路に急ぐ。俺はこの時ほどアインシュタインの相対性理論を呪ったことはなかった。
和平交渉はしたが、準備は抜かりなく。家の鍵を鞄から探り当てようとした、その時。
鍵、会社に忘れた――。
俺にはもはや、棘の道を引き返すだけの気力など残っていなかった。
合掌。