特別養子縁組は、6ヶ月以上一緒に暮らした経験をもとにその判断が下される。
早智子が放った平手打ち、そして自分勝手な言い分は聡美との間に深い溝をつくり、それは6ヶ月という時間で解決できるものではなかった。
早智子は、平手を張った後我にかえり、聡美に対する罪悪感でいっぱいとなったが、今さらどうすることもできなかった。特別養子縁組の審判は否と下され、別々の道を歩むことになるだろう聡美とはこれ以上の確執を起こすだけ疲れるだけだと、無難な日々を過ごそうと決めていた。
だから、聡美の実母と名乗る女性から連絡がきたとき、早智子は脳のどこかで他人事のように聞き流した。
「あの子にはこれまでずっと、辛い思いをさせてしまっていました。今さらどんな顔をすればよいかと思っていました。だけど、新聞であの人が亡くなったと知って…悩んだのですが」
マンション近くの喫茶店で、鈴木美沙と名乗る、確かに聡美によく似た女性は苦しそうに 胸の内を語った。早智子は肩の荷が降りると同時に、ざらついた気持ちがまだ残っているのを感じた。
アイスコーヒーのグラスに入った、溶けかかった氷がからん、と音をたてて滑り落ちた。
「鈴木さん、聡美ちゃんとは何年会ってないんですか」
立ち入った話を聞ける立場ではないと思いつつ、私は今保護者なのだからと言い聞かせ、美沙の反応をうかがった。美沙は、暗誦文をすらすらとうたうように答えた。「あの子とは、一才のころから会っていませんでした。でも、あの子のことを忘れたことは、一度としてありませんでした」
早智子は、義人からさんざん聞かされていたから、義人に代わり彼女をなじることも非難することもできたが、何の意味もないこと、また、義人の代理にもなれないことを知っていた。
早晩にも聡美に話し、連絡することを約束して美沙と別れた。
とはいえ、美沙のことをどう話せばよいかまったく思いつかなかった。
聡美に対し、憐憫と義人というフィルターを通じての愛情、一方で世間体という義務感と自分勝手な想いがない交ぜとなった複雑な感情が簡単にほどけなくなった状態で目の前にあった。
それらをうっちゃり、逃げ出したい思いに駆られたが、義人の顔が浮かんでは消え、打算に走ることすらできないままマンションのドア前まで来てしまった。