● 「信念」の奇跡。 | たいやき社長、書く。

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平成最後の年となりました。本日は、新年にかけまして、「信念」を持ち、貫く気概があれば、奇跡をも起こすという話をしたいと思います。

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)とは、幕末から明治時代の政治家、思想家、剣術家ですが、昨年の大河ドラマ「西郷どん」で知られる、あの西郷隆盛に、「命もいらぬ、名もいらぬ、名誉もいらぬ、金もいらぬというような人は仕末に困るものである。しかし、このような『仕末に困る人物』でなければ困難を一緒に分かち合い、国家の大きな仕事を大成することは出来ない」と言わせたという豪傑です。

その豪傑が、江戸を戦火から救うために、西郷隆盛との面会を終えて、帰路についている時に命を狙われました。いきなり至近距離から、胸板めがけて発砲されたのです。鉄舟は、とっさに「しまった」と思いましたが、たしかに鉄砲は発火したのに、弾丸が出ることなく一命は助かったというのです。

もし、弾丸が発射されていたら確実に死んでいました。鉄舟は、「なぜ弾丸が出なかったのか不思議でならない。しかし、至誠・赤心となって、頭の先から足のつま先まで『信念』そのものになり切っている時には、弾丸も当たらないものなのだ」というようなことを言ったといいますが、これは、奇跡としか言いようがありません。

このような奇跡を、自己啓発の世界では有名である、哲人、中村天風(なかむらてんぷう)も起こしています。ある暴動をとめるために、パンパンと銃を撃ってくる相手に天風は突き進んでいきました。そこには、「争いをとめるために来た人間に、絶対、鉄砲の弾があたるはずがない」という、不惜身命の「信念」があったのです。このとき、着ていたコートを5発、ズボンを2発、弾丸がかすめていたそうですが、結局、弾はひとつも体にあたることなく、天風は相手の度肝をすっかり抜いてしまったといいます。これもまた、奇跡としか言いようがありません。

「正しい事をしている人間に、正しからざる事の生ずるはずはないという事が私の『信念』だ。」中村天風にも、山岡鉄舟にも、このような、絶対なる「信念」があったのだと思います。そして、その微塵も揺るがない不動の「信念」というものは、「現実をねじ曲げる力」があるのです。人間の「信念」には、「奇跡を起こす力」があるのです。これは、まさに魔法、魔術です。

私が学生のころ、国語の教師が、何かを説明するのに、たとえ話でこのようなことを言っていたのが、いまだに焼きついています。「自分が崖から落ちそうになったとき、かろうじて草木の枝につかまり、そこからどうにも身動きがとれなくなったとする。その時、どこからか神の声が聞こえてきた。『お前は、神を信じるか。信じるならば、その手を離せ。離せば助けてやろう。』このような時に、あなたがたは、枝から手を離すことができるか。」

このような〝 問い ″ だったのですが、もし、自分にはまだやるべき使命があって、ここで死ぬはずなど絶対にないのだという、猛烈な「信念」がある〝 人物 ″ であれば、おそらく手を離せるのだと思います。しかし、己の人生に使命を見出せず、天命を感じておらず、「信念」のない人間は、断じて手を離すことはできないでしょう。

まあ、これは極端ではありますが、自分が自身の生きる道、人生に対して、どれほどの「信念」を抱いているかということの判断材料となる問いといえます。ただいま、私は、不惜身命の精神で臨みたいものがあります。そして、それに臨むにあたり、現実をねじ曲げ、奇跡をも起こせる魔法、魔術といえる「信念」というものを持っていると確信していると同時に、より一段の準備、強化を進めている日々です。

私たち人間には、魔法、魔術のごとく、奇跡を起こせる未知なる、そして偉大なる力が与えられているのであるということを、どうか知ってください。そして、新年、いま・ここから、不動の「信念」を培い、育み、養ってゆく、圧倒的な努力を始めてまいりましょう。求められるものは、己に対する自信を、確信のレベルへと持ってゆける、「他の追随を許さない突出した努力」です。

大晦日の歌番組で、ある若いアイドルが、司会者から「初出場で緊張していると思いますが」と声をかけられた時に、「いえ、緊張はしていませんが、頑張りたいと思います」と答えたのが、私には大変印象的でした。その人は、緊張しないだけの、「圧倒的な努力、圧倒的な準備」が出来ていたのだと思います。すべては、自分が手にしたい結果に対して、圧倒的な「準備を終えてあるかどうか」にかかっているといえるでしょう。どうか、「信念の人」となれるよう、圧倒的な自助努力、自己修養に励んでいただきたいと思います。

  
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