(『人間革命』第11巻より編集)
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〈転機〉 21
戸田城聖逝去の昭和三十三年四月、八十六万世帯の創価学会は、二年後の昭和三十五年には、実に百七十万世帯へと難なく飛躍していた。
その活力の淵源は、実に、この「山口開拓指導」の三か月であり、これが学会の「転機」となったのである。
戦後十一年が過ぎた昭和三十一年の夏から秋にかけて、世界の政治情勢に、激震ともいうべき事態が、東欧と中東に勃発した。
・・・ 。
戦後十一年にして、敗戦国日本は、ようやく孤立を脱して、国連加盟国の仲間入りを果たしたのである。
戸田は、ハンガリーの暴動から、苦しむ民衆の悲痛な境遇を思った。
そして彼が、今、その悲痛な民衆に対して、直接、救済の手を差し伸べる手段も、方法もないことを思った。
彼は、地球上から、あらゆる悲惨事の消滅を願って戦っているものの、まだまだ遠い道程にあることに焦燥を覚えながら、歴史に思いを馳せた。
”これは、おかしい。自由主義にしろ、共産主義にしろ、相争うために考え出されたものではあるまい。
しかし、この二つの思想が、この地球上で、政治に、経済に、相争うものをつくりだしていることは、悲しむべき事実といわなくてはならない。
また、ここで、釈尊の存在と、キリストの存在と、マホメットの存在を考えてみると、これまた相争うべきものではないはずである。
してみると、もし、仮に、これらの聖者が一堂に会したとすると、どういうことになるか。
会議はは、決して、人間が悲惨になるようなことを協議しないにちがいない。
(つづく)