(『人間革命』第7巻より編集)
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〈原点〉 11
(つづき)
われわれは、それほど智慧もないのに、宇宙の本源の哲理をもつゆえに、智慧第一の舎利弗以上なんですよ。
舎利弗より智慧があることになっているんです。
これは以信代慧(いしんだいえ)と言いまして、御本尊を信ずる者も智慧というものは、御本尊の智慧と同じですから、舎利弗以上になってくるんです。
そこで、御本尊を信ずる深さが問題となってくるわけです。安心しなさい。頭は悪くないのだから」
戸田の講義は、経文の説明のみに終わらず、常に眼前の聴衆の胸に飛び込んだ講義だった。
法華経を、わがものとしていた彼の確信は、聴く人びとの胸奥に迫り、新しい境地を開かしめたのである。
「舎利弗に告げて言うには、『諸仏の智慧は甚深無量…』。
この言い方は、無問自説(むもんじせつ)という形式です。
釈尊一代の経文を、説法の仕方や内容によって、九部の経、十二部の経と分けているが、そのなかの、無問自説という説法の仕方です。
説法の場には、いつも発起衆(ほっきしゅう)という者がいて、問いを起こすことになっている。それに応じて仏が答える。
誰も質問しないのに説きだすということは、絶対にないことになっている。
ところが、このところだけは、誰も質問しないのに『諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は難解難入なり』と冒頭から、仏の智慧を褒(ほ)めだしたのです。
聴いていた連中も驚いたに違いない。
諸仏の智慧は甚深無量ー
文上からいけば、あらゆる仏の智慧が、甚深で無量というのは、縦に如理(真理)の底に徹すること甚深、横に法界を極めること無量であるという。
(つづく)