増田一家の信仰の厚薄 | くにゆきのブログ

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今、自分が感動したこと、また知っていただきたいことを、主に記していこうと思います。

(『人間革命』第2巻より編集)

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  〈幾山河〉 2

 

 この地に、妙法が広まるかどうかは、すべて、増田一家の信仰の厚薄にかかっていたのである。

 

 ちょうどそのころ、東京の学会本部では、地方指導の日程を決定した。

 敗戦ここに一年 ー 昭和二十一年秋のことである。

 今、学会の再起も、戦後最初の地方指導を敢行するまでに、発展していたのである。

 

 この二か月前、黒羽町の近村に、小西武雄が現れた。

 彼の生家があったからである。

 彼は、ある日、師範学校の親友が、両郷国民学校にいることを知り、自転車を飛ばした。

 校庭から、職員室にいる親友に声をかけた時、そこに、一人の女性がいた。

 

 「まぁ、小西先生ではあいませんか!」

 「私、増田でございます。直江です。関先生に折伏された、増田直江です」

 久一郎の長女・直江は、この奇遇を喜び、創価教育学会の消息を、しきりに尋ねるのであった。

 

 一家は、この出会いを喜んだ。

 これを契機に、直江は、学校が休暇に入ると、妹の政子と共に東京へ走った。

 法華経講義にも出席した。

 

 戸田城聖の生命論は、彼女たちには、全くの衝撃であった。

 大きな感動を覚えた二人は、そのまま同志に伴われて、戸田に親しく指導を受けた。

 

 彼女たちは、村の折伏の困難を訴えた。

 「よろしい、行ってあげよう。しっかり下種(仏法対話)しておきなさい。約束したよ」

 

 姉妹は、真剣であった。その夜から、折伏を開始したのである。

 

 

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