わざわざモリエールを持ち出さなくても、人嫌い、人間嫌いはどこにでもいる。
現に、私も娘にそう思われている。
理由は、娘が成人するまでに交わした様々な対話の中で、人間や社会について私が話した内容に、厭人的なものやシニカルなものが多かったからだろう。
しかし、この種の論議はまずキーワードの定義を明確にしなければ、文字通り話が進まない。
人嫌い → 嫌い → 「嫌い」とは何か?「好き」とは何か?
「好き・嫌い」あるいは「愛・憎」という言葉を対称語として考えると、なおさら話が混乱する。
「好き・愛」の反対語は「嫌い・憎」ではなく、「無関心」である。
大抵の大人なら、すぐに理解する筈だ。
「好き・嫌い」あるいは「愛・憎」は、互いにアウトサイダーではなく、極度に思想・感性が違う同胞同士と言える。
ここまで来て、やっと冒頭のお題に戻れる。
人嫌いとは何か?
これもまた上述の定義から逃れられない。「人嫌い」と「人好き」は互いに同胞である。
口では全く正反対のことを言っているが、実は人間について激しい関心を抱いている点で、完全な同胞である。(言うまでもなく「人好き」という日本語は本来別の意味合いがあり、humanistとは違うけれども、ここでは便宜上無視して欲しい。)
なら「人嫌い」の定義とは?
「好きになれる人がいない人好き」あるいは「好きになってくれる人がいない人好き」とでも言っておこう。
私は人嫌いか?
なるほど口数は少ない。いつも仏頂面をしている。
朝、誰かに出会っても、
「おっはよ~ございますぅ!!今朝も寒いですね~~!」などというNHKのラジオ体操みたいな挨拶は決してしない。同じ地区の住民とすれ違えば、会釈くらいする。だが、外出しても、誰とも顔を合わせたくないと思うことの方が多い。
もっとも、何にでも例外はある。
先日の朝、また向かいのMさんと玄関口で目が合った。
数年前に大怪我をしてから、Mさんは元気がない。
毎週熱心にリハビリに通っているものの、昔のような、明るい、実直そのものという笑顔が減った。
私はいつものように会釈し、Mさんも同様に会釈を返してきた。何か話しかけようかと一瞬迷い、「梅が咲き始めましたね」とでも言おうかと思ったが、結局やめた。
ましてや体調を聞くのも、よけい憚られる。
正直に言えば、その時心に浮かんだのは、(もしこの人にもしもの事があったら、ほぼ700人が住むこの町で、私が自ら進んで挨拶をする人は誰もいなくなる)という事だった。
さて、娘よ。私は人嫌いか否か?
(2024.02.15)