末期膵臓癌の70歳の建設労務者が、病院で「私は桐島聡です」と告げてから死んだ ---- このニュースを初めて知った時、私は様々な同世代的感慨に襲われた。
敢えて言語化すると、次のようになる。
(何という阿呆な人生だ)
(民間人を8人も爆殺し、その家族の運命を狂わせた挙句に、半世紀近い逃亡者暮らしか)
(理念も思想も所詮ヒトがこしらえた眉唾物で、良くて「堅苦しい詩」、悪く言えば「裸の猿のアブラ・カダブラ」に過ぎない。いくら若かったとは言え、少しは疑わなかったのか?)
(そういや、見るからにお先棒担ぎらしい、間抜けそうなナイーブな顔つきをしている)
(お前には、重信房子や永田洋子や大道寺あや子が、ジャンヌ・ダルクにでも見えたのか?)
(俺を見ろ。猜疑心の塊と周囲から謗られた俺は、一度佐藤訪米阻止デモの際、蒲田で検挙されただけで、後は無難にネクタイを絞めたぞ)
感慨ばかりか、一種のフラッシュバックも起きた。
1972年2月、私はセールスマン一年生で、四日市の石油コンビナート地帯に自動倉庫の売込みを命じられていた。こんな生活がこれからずっと続くのかと、いつも車窓に虚ろな目を投げている日々で、毎日胃が痛かった。
その日、近鉄特急の車中、名古屋駅の売店で買った朝刊を広げると、「浅間山荘陥落」がでかでかと報じられていた。
(こいつらは)と、抜け目のない、機を見るに敏な私は内心大笑した。
(祭が終わってから踊りだしてやがる)
なぜか分からないが、その時流れた「まもなく桑名です」という車内アナウンスが未だに耳に残っている。ちなみに当時の胃痛には、後半生ずっと慢性胃炎として付きまとわれている。
病院で「私は桐島聡です」と告げてから死んだ労務者は、「東アジア反日武装戦線」の「サソリ」というグループに属していたそうだ。その当時の政治状況や極左団体について、当時この世に影も形もなかった解説者やMCが、今日もTVで得々と語っている。もはや歴史談義の趣さえある。
なあ、サソリよ。
若い時の「ドラマ」だけを命綱にして、半世紀という膨大な時間を流れてきたのか。
何も言わず、誰にも知られず、ひっそりと一人で逝った方が絵になったのに。
(2024.02.04)