吉丸一昌という明治の文人が書いた『早春賦』の一番はこうだ。
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
明治人らしく漢文の素養が深かったからなのだろうが、単なる花鳥風月の詩趣を、まるで李白の
「牀前月光を看る、疑うらくは是地上の霜か」の如く、格調高く謳い上げているところが良い。もし趣向としてわざとそうしたのなら、一級品のウィットと称賛すべきだろう。歌は思えど、「時にあらずと声も立てず」の一節など思わずニヤッとさせられる。
(え? 何言ってるか分からない? そ、そうか・・・分からないか。そうだよな。分からないよな、うん。じゃあ、これなんかどう? →→ 若者への罵り ~ ただのバカなのか?それとも・・・ )
委細構わず、続ける。
日本の花鳥風月を愛でる文化は、言うまでもなくかなりの部分、春夏秋冬のパタナイゼーションに立脚する。言わば四季の形式化というか、美学化というか。嘗ての西洋の「人類が克服すべき大自然」的対立概念の対極にあるものだ。
別に称賛ばかりしているわけではない。何事によらず、伝統の美名の下にこのパタナイゼーションが過ぎると、新しきものの創造の土壌を枯渇させる。この国はもはや、文化から産業に至るまで、保護伝統文化財でいっぱいだ。
(前置きが長くなり過ぎたので、後は端折る。)
*
私の住む町では、まだこの冬一度も雪が降らない。
というか、ここ4~5年雪が降った記憶がない。
豪雪地帯の住民からは「いい加減にしろ」とお叱りの声が飛びそうだが、私は雪に魅せられる。
雪は、夜のように、無機質で詩にならぬ物を覆い隠す。
雪と夜は、美しからざる物、例えば人の群れなどを覆い隠す。
以前、Youtubeの「廃村探訪シリーズ」で、人気が消え、半ば雪に埋もれた廃村の光景を見た。私にとっては、息をのむほど美しかった。手垢の付いた表現だが、滅びの美学の一つだろう。
ある先人の言葉が思い出される。
人が真に他人の魂を揺さぶることができるのは、生まれたときと死ぬときだけだ。
(2024.02.02)