「なるようにしかならない」と「なるようになる」は、全く同じ文趣である。
でありながら、表面上の否定文と肯定文の違いだけで、ニュアンスが大きく違って見える。
何か問題を抱えた人が「なるようにしかならない・・・」と呟く時、その人の懸念、心配、徒労感、失意、絶望等々が滲み出る。
一方で、同様に問題を抱えた人が「なるようになるさ」と軽く言い放つ時、聞いた人は、問題が大したことではないような気になる。
その後に味わう苦労の質と量が同じだとすれば、「なるようになるさ」の方が断然得に決まっている。このタイプは、多少なり想像力と責任感の欠乏傾向が窺われるものの、本番の苦悩を2倍くらい膨らまして過度に苦しむ「なるようにしかならない」タイプより遥かにマシであろう。
ある種の「なるようになるさ」タイプは、外見に反して結構深い。
生粋のバカなのか、それとも一種の諦観によって人為の空しさを悟り、ただ成行きに身を委ねている賢人なのか、その区別がつきかねる。
一面において、「なるようになる」は逃避であり、自己の価値観、意思、自我、自助努力の放棄である。しかし、逆に言えば、この放棄は過度の執着を捨てるという意味合いにもなる。
因みに私はというと、育った環境に若干の問題があったせいか、もう中学生くらいの頃からペシミストだった気がする。(このクソ忌々しい世界のどこに身を置いても、安心できる場所がない) そういう一種荒んだ世界観を首にぶら下げている子供だった。(昨今では、こういう子供も決して少数派ではないだろう。)
これではいけないと悟ったのは、呆れたことに古希を過ぎてからだ。というか、つい最近だ。
心の平穏などという凡庸極まる欲求が初めて湧いた。自力本願の全てを捨て去るのは無理であっても、もう少し素直に加齢に応じて、その幾つかは捨てなければならないと考え始めた。それで随分と心が楽になるのではないか。そう思った。
新しい事を学ぶには手順が大事だ。
まず形式から入るに如くはない。
これからは、辛いこと、苦しいことが起きた時には、独りぽつりと呟いてみることにしよう。
「なるようになるさ・・・」
(2024.01.05)