#35 「なるようにしかならない」と「なるようになる」~ 楽観主義入門 | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

      

 

「なるようにしかならない」と「なるようになる」は、全く同じ文趣である。

でありながら、表面上の否定文と肯定文の違いだけで、ニュアンスが大きく違って見える。

何か問題を抱えた人が「なるようにしかならない・・・」と呟く時、その人の懸念、心配、徒労感、失意、絶望等々が滲み出る。

一方で、同様に問題を抱えた人が「なるようになるさ」と軽く言い放つ時、聞いた人は、問題が大したことではないような気になる。

その後に味わう苦労の質と量が同じだとすれば、「なるようになるさ」の方が断然得に決まっている。このタイプは、多少なり想像力と責任感の欠乏傾向が窺われるものの、本番の苦悩を2倍くらい膨らまして過度に苦しむ「なるようにしかならない」タイプより遥かにマシであろう。

 

 

ある種の「なるようになるさ」タイプは、外見に反して結構深い。

生粋のバカなのか、それとも一種の諦観によって人為の空しさを悟り、ただ成行きに身を委ねている賢人なのか、その区別がつきかねる。

一面において、「なるようになる」は逃避であり、自己の価値観、意思、自我、自助努力の放棄である。しかし、逆に言えば、この放棄は過度の執着を捨てるという意味合いにもなる。

因みに私はというと、育った環境に若干の問題があったせいか、もう中学生くらいの頃からペシミストだった気がする。(このクソ忌々しい世界のどこに身を置いても、安心できる場所がない) そういう一種荒んだ世界観を首にぶら下げている子供だった。(昨今では、こういう子供も決して少数派ではないだろう。)

これではいけないと悟ったのは、呆れたことに古希を過ぎてからだ。というか、つい最近だ。

心の平穏などという凡庸極まる欲求が初めて湧いた。自力本願の全てを捨て去るのは無理であっても、もう少し素直に加齢に応じて、その幾つかは捨てなければならないと考え始めた。それで随分と心が楽になるのではないか。そう思った。

 

 

新しい事を学ぶには手順が大事だ。

まず形式から入るに如くはない。

これからは、辛いこと、苦しいことが起きた時には、独りぽつりと呟いてみることにしよう。

「なるようになるさ・・・」

 

                                                             

                                                                    (2024.01.05)

 

 

 

 

 

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