先日、かなり強い雨が一日降った。
玄関の軒が詰まり、溢れた雨水が滝のように玄関先を濡らした。
数日後、私はおっかなびっくりで脚立に昇り、詰まった軒の枯葉や土砂を掻き出した。
作業を終えた後、私は両手をズボンのポケットに突っ込み、くわえタバコのまま、正面
から我が家を見上げた。
正直に言うと、(どうも、こりゃ、失敗したかな・・・)とその時ふと思った。
人生に、だ。
星の数ほどいるだろう御同輩と同様、私も住宅ローンを利用して35歳で家を買った。
62歳で返済完了した。27年間、ずるずるとローンの鉄鎖を引きずって生きたことになる。
そして現在、築40年近い古家は、軒が詰まり、下水管が詰まり、壁にはあちこちひび割れ
が走っている。
(こんなもののために、27年間不自由を強いられた・・・)と思った。思ったところで
仕方ない、誰でもない自分自身の選択の結果だ。
*
このエッセイシリーズの初め頃、私はこんなことを書いている。
絵に描いたような貧乏学生だった20歳の頃、私は固く信じて疑わなかった。
(俺はアフリカのランボーのように、放浪の果て、どこか遠い異国で失意を
枕に客死するだろう)
(俺はそのうち『セールスマンの死』のウィリー・ローマンのように、資本
主義のジャングルの片隅で惨めに自死するだろう)
この昭和的ドラマティズムは遂に実現せず、代わりに築40年の古家が残った。
何を言っているのかわからないって?
このささやかな挿話は、「夢追い」か「安定」かの選択というお題を提示している。
しかし、限りある命の人間である限り、文字通り死ぬまで「安定」などない、という
のが解だ。せいぜい築40年の古家が関の山だろう。
もしあなたが極めて裕福な親に扶養されている夢追い人か、あるいは社会的蔑視、苦悩、
困窮、餓死を覚悟できるほどの夢追い人であるのなら、OK、夢を追えばいい。
人は最期の時、「私の人生は安定していたかどうか」などという評価をするとは思えない。
(ああ、面白かった・・・)と呟いて逝けるのなら、それに勝る歓びはないじゃないか。
(2023.10.25)