#39  司馬遼太郎の思い出 ~ 私の歴史の先生 | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

 以前、引退宣言した折に、かなりの本を廃棄処分した。
 その殆どが、長年にわたり翻訳資料として購入してきた自然科学、人文科学、法律等の専門書籍で、累計すれば実に高額な投資になる。現在では、その内容の殆どが時代遅れになっていて、情報源としての価値は喪失している。もう少し早くインターネットが普及していれば、と思わずにいられなかった。

             
 

  しかし、実のところ処分すべき本は、まだ棚2本分残っている。この未処分の本には、夥しい数の司馬遼太郎の本が含まれている。
   ギャンブル依存症気味の若いサラリーマンだった頃、私は学生時代のように詩も小説も読まなくなり、例外的に手にする本と言えば司馬遼太郎か、あるいは株か不動産投資の実用書ばかりだった。(こう書けば、ああ、あの時代か!とすぐ思い当たる人も少なからずいるだろう)
  白状するが、私はそもそも歴史が嫌いで、大学受験ではひどい目にあった。さらに告白すると、私の歴史に関する知識は殆ど全部と言って良い程、司馬遼太郎の小説に由来する。戦国時代の信長、秀吉、家康、幕末の坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛、土方歳三、吉田松陰、・・・等の、いわゆる「歴史上の英傑」の具体的なイメージは、みんな司馬遼太郎の小説から来ている。また、日露戦争における「リアリスト」児玉源太郎と「軍神」乃木希典の描き方も好感が持てた。
  司馬遼太郎は、作家と歴史家の二足の草鞋を履いていた。
   ドナルド・キーンとの対談本を読んだことがあるが、歴史音痴であった私は、なおさら二人の歴史の細部に関する造詣の深さに驚いた。(なるほど、専門家とはこういうものか)と思った。
また日本史ばかりでなく、『韃靼疾風録』で清朝の勃興を学び、『菜の花の沖』で幕末のロシヤとの通商を通した友好を教えられた。
  こう言うと、まるで私だけが特別のように響くかも知れないが、実際に司馬遼太郎から歴史を学んだ日本人は無数にいるだろう。何しろこの小説家は「国民的作家」として、十数年にわたりサラリーマンの愛読書ベストテンの常連だったそうだから。

 

                                      

 

  しかし、一方で私は少し疑った。司馬遼太郎の小説はどこまで真実か?
  例えば、坂本龍馬を日本史の英雄に仕立て上げたのは、間違いなくこの小説家だと私は思う。「薩長連合」だの「大政奉還」だのと言っても、龍馬ひとりで成し遂げたとは誰も信じない筈だ。それどころか、食い詰めた若い者を集めて「日本初の会社」を設立したは良いが、資金が続かずグダグダになる、とか、海難事故を起こして紀州藩に因縁をつけ、巨額の賠償金をふんだくる、とか、いちいちやることが後世の「右翼の巨頭」とか「政商」じみた臭いがある。そんな胡散臭さ満載の人物を、司馬は筆一本で、あの土佐の高知の桂浜に立つ像のような颯爽たる英雄にしてしまった。
  『龍馬が行く』 やその他多くのベストセラー長編がこれまで累積的に日本に及ぼした巨大な影響に、私は心底震撼する。これは、文学者や芸術家などには到底真似のできない大技の文化プロパガンダだ。
  一人の読者として言わせてもらうなら、文学や芸術として見た場合、司馬の幾つものベストセラー長編をいくら堆く積み上げても、例えば深沢七郎の「楢山節考」一編や、生涯大阪の田舎町の高校教師として生きた伊藤静雄の薄い詩集4冊には及ばない。良くも悪くも比べ物にならないし、そもそも比べるべきものでもない。
  だがしかし、司馬遼太郎を、小説を道具に使った歴史家として捉えるとき、彼が残した分厚い広範囲な文化的影響は、「文学」を、どこか小唄、長唄、端唄のような軽い芸事のように脇に押しやってしまう。文学史ではなく、文化史に類別すべき作家だと思う。


  最後に、小さな思い出話をひとつ。

  平成の初め頃、私は環境機器の貿易ブローカーだった。
  ある年、仕事の絡みで、東大阪にあった某部品メーカーを訪ねたことがある。商談はそこそこ満足の行く合意に至った。
   帰路、近鉄大阪線の八戸ノ里駅まで帰る私を、商談相手の部長が見送りに来てくれた。車で送ってくれるのかと思ったら、駅まで近いから歩いて行こう、と言う。途中、確か学校の近くの、何ということのない普通の民家を指さしてその部長が言った。
  「あれ、司馬遼太郎さんの家ですわ」
 私の伯父があそこに住んでる、みたいな言いぐさがちょっと可笑しかったが、その頃の私は小説などにかまけている心理的余裕がなく、( こんなものを見せるために、わざわざ駅まで歩かせたのか )と、多少腹立たしく感じたことも事実だ。

 司馬遼太郎はそれから4、5年経って病死した。その後しばらく、回顧記事を目にするたび、私はあの時の(司馬遼太郎さんの家ですわ)を思い出した。