松村圭一郎『くらしのアナキズム』の分析読書、第2章へ。

1章ではアナキズムと人類学がどのように結びつくのか、国家がどのように生まれ、人びとにとってどういうものだったか。そして国家から逃げ出した人びとの営みが世界各地(日本にも)に存在することを見た。

 

今日の国家と人びとの関係は、を納める代わりに社会保障されるものだが、1章によると、そうなったのは最近。もとは国家権力が税を搾取するだけだったので、そこから逃げ出す人びとがいた。辺境に逃げた集団は、支配なく自己組織化し、階層化しないよう、全員に富が行き渡るよう工夫され、平和で秩序ある共同体も生まれた。(2章では必ずしもそうでない場合にも触れられる)こうした営みはアナキズムが目指す理想と重なる。辺境での営みは、国家と強力に結びつく文字としては残っていない。その営みを研究してきたのが人類学。

1章の終わりの

問い)いま国家のもとでしか生きられないと思っているぼくらがなぜ「アナキズム」を探求するのか

がこの2章で確かめられる。

 

2章 生活者のアナキズム は、6つの節+コラムから成る。

 

第2章 生活者のアナキズム

 

国家が機能しなくなるとき

内閣はなくても暮らしはやめられない

政治は暮らしの中にある

パンデミックが教えてくれたこと

安全な居場所をつくる

抵抗すべき「権力」はどこにあるのか

コラム2 ドキュメント熊本地震

 

 国家が機能しなくなるとき 

 

国家が機能しなくなるとき=災害時

 

ライフラインが失われ、行政機能が麻痺する

 

2016年 熊本地震→水やシートは近所の人づて

1995年 阪神淡路大震災→倒壊家屋から救出された人:8割が近隣住民の手で

 

たよりになるのは、隣にいるふつうの人

不測の事態打開の鍵:大きな組織ではなく、小さなつながり

 

2018年 西日本豪雨

2011年 東日本大震災

2018年 大阪北部地震 台風21号

2019年 台風15号 千葉県停電

 

国や行政がつねに全国どこでも完全にカバーすることはできない。

またたとえ災害が起きていなくても、

国の存在感の薄い場所は日本にいくらでもある。(瀬戸内の島の例)

国家とは無縁の小さなスキマは、私たちのすぐ側にある。

 

 内閣はなくても暮らしはやめられない 

 

政治家のスキャンダルがドラマ化され消費される。

政治が暮らしのリアリティからかけ離れたものになっている。

 

*行政と暮らしのリアルなつながりが感じられたエピソード

2018年1月12日「京都新聞「凡語」」

小学1年生の男の子が卒園した保育園へきて、「昨日からなんも食べてへん」「お風呂は水で冷たい」と保育士につぶやいたことで、行政の生活支援につながった。男の子は父親と祖母の3人暮しで、父親は長期不在だった。祖母は体調を崩していた。保育園の送り迎えで顔見知りだった保育士をたよって、祖母が「保育所で話してくるように」といった。

 

*エピソードからの気づき

生活を保障する法律や制度があるだけでは不十分。

制度の恩恵を受けるための手続きが、高齢者や病気の人にはハードルが高い。

 

特に小さい子どもは制度に直接アクセスできない。助けが必要な人ほど余裕がなく、支援制度に届かないことも多い。助けが必要な人に気づくのは身近な人。

 

 政治は暮らしの中にある 

 

ここで政治のとらえ直しが行われる。

「立法」法律を定める

「行政」法律に沿った政策の実行

「司法」法律違反の処罰

は政治の一部に過ぎないと筆者はいう。

被害者が法に訴え出ること、困った人に支援が届くこと、

をサポートし、現実化するのは側にいる一人ひとり

                →暮らしの中の政治

              政治と暮らしは、連続線上にある。

 

くらしのアナキズムの核心

"生活者が政治を暮らしのなかでみずからやること"

 

 パンデミックが教えてくれたこと 

 

アウトブレイク

特定の区域や特定の集団における、通常予測される以上の感染者数の増加                            

エピデミック

感染症が最初に急増したコミュニティよりも広い地域に拡大した状態

パンデミック

エピデミックが国境を超えて広がり、複数の国や大陸に拡散・同時流行した状態

 

問い)パンデミックの危機では、国家の強い強制力が不可欠か?

 

中国

2019年12月30日眼科医 李文亮氏がアウトブレイクを告発するも、中国公安省職員から「社会秩序を著しく乱す」「虚偽の発言だった」と告発する書簡への署名を求められた。

 

アメリカ

感染症対策の国家機関「疾病対策予防センター」(CDC)があり、莫大な予算がつぎ込まれている。しかしそれでも新型ウィルスを抑え込めず、世界で最も多く感染者・死者数が出ている。(2021年8月1日→2022年2月17日現在も)

 

日本

現場レベルの問題解決力が重要な役割を担った。

保健所の職員、医療従事者の献身的な働き。

強制や補償がなくとも自粛、マスク生活を送った市民の力。

 

国家が機能するためには、現場で一人ひとりが問題を感じ取り、自分で考えて動ける自由が欠かせない。それがあって、初めて国家は生活保障の機構として動きはじめる。p.66

 

2020年はスウェーデンのロックダウンしない方針が話題になった。世界の国々が共通の問題に直面する中で、対策や考え方の違いが明らかになった。各国の成功、失敗、それらの分析は今後、世界全体で共有していくものになると思う。

 

2020年、緊急事態宣言が出された頃、日本では自粛警察と呼ばれる現象(店舗への張り紙など嫌がらせ)が起こったことも記憶に新しい。それから、住んでいる地域以外の都道府県知事の顔をニュースでよく見るようになったこと。平常あまりなかったことなので、強く印象に残った。

 

 安全な居場所をつくる 

 

前節の「自分で考えて動ける自由」につながることとして、

ここではオードリー・タン『自由への手紙』

3章  デフォルトから自由になる

11 強制から自由になる

13 支配から自由になる

の内容から話が展開されている。

 

台湾

デジタル担当大臣 オードリー・タン

迅速なコロナ対応で注目される。「保守的アナキスト」を名乗る。

 

<タンの定義>

保守的である:進歩の名のもとにこれまでの文化を犠牲にすることなく、多様な伝統的価値を大切にする。

アナキズム:高圧的行動に訴えることなく、変革に取り組むこと

 

<タンの考え・目指すところ>

変革を起こすには安全な居場所が必要。

安全な居場所があれば、人は他者を受け入れられる。

居場所さえあれば、どんな変革も強制や排除なしに行える。

目指すのは「強制から解放されたアナキズム」

 

ー従来のアナキストのイメージー

国家を打倒する革命を目指す。

国家から距離をとって独自の相互扶助的な共同体を作る。

過去いくつもの試みが短期間で失敗に終わる。

成功した主な革命は、実質的にはすべてが、打ち倒した国家よりもさらに強権的な国家を創出して終わるということがようやくわかってきた。

ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム』

 

<留意点>

国家←必ずしも自由に対する敵ではない。

国家なき社会←奴隷制、戦乱、隷属、女性の所有

       つねに協調的で平等なユートピアであったわけではない。

 

『自由への手紙』(過去記事)まだ全部は読んでいない。

1 格差から自由になる

2 ジェンダーから自由になる

3 デフォルトから自由になる

4 仕事から自由になる

タンさんの柔らかい発想はいいな。

 

抵抗すべき「権力」はどこにあるのか? 

 

問い)抵抗すべき「権力」はどこにあるのか?

 

「権力」のイメージを一変させた ミシェル・フーコー(フランスの思想家)

「権力」は「国家権力」ではない。

「権力は至る所にある」なぜなら権力は「至る所から生じるからである」

              『性の歴史I 知への意志』120頁

 

具体例)個人的な性的欲望

        同性愛は性の倒錯として社会的統制の対象とされた

                  教会、病院、家族が権力の装置に

 

映画『イミテーション ゲーム』(過去記事)では、天才数学者チューリングが同性愛の罪で逮捕され、ホルモン治療を強制された事実も描かれている。今ならばあまりにも酷い人権侵害だが、当時は普通のこととされていた。

 

上で触れた自粛警察も、行っているのは個人で、国家ではない。

これも権力の装置の一形態と言えそう。

 

規律に従いながらもそれを反転させる民衆の「知恵」「戦術」に着目

                  歴史家 ミシェルド・セルトー

監視の目を逸らし、ついには反規律の網の目を形成するような策略と手続きが、人びとの日常性の細部に潜んでいる。

 

 ↓

アナキズムのプロジェクトに必要なのは、

社会科学本流の「高踏理論(ハイ・セオリー)」ではなく、

問題にとりくむ直接的な方法論としての「低理論(ロー・セオリー)」だ                                         人類学者 デヴィッド・グレーバー

 

低理論:人びと生活の中で育まれ、ローカルな場で実践される。

↑人類学がこだわり続けてきたもの

 

次章へ向けての

問い)人類学者は世界中の民族の事例をとおして、どのような低理論を描いてきたのか。

 

『自由への手紙』にはこんなことも書いてある。

 

”人間は進歩の名のもとに、短絡的な解決に走るソリューショニズムのような考え方にとびつきがちです。すると、あるひとつの軸にもとづく進歩のために、しばしばそれ以外の文化を犠牲にしてしまいます。

一つを選ぶために、そのほかを捨てる。

これは私の言う「保守主義」ではありません。

私が考える「保守主義」とは、社会が共通の価値観に合意すること。

これが何よりも重要であり、(台湾の)20の異なる文化のような多様かつ伝統的価値を犠牲にしてまで、進歩一辺倒であってはいけない、ということです。”p.106

 

この箇所を読んで、日本の農村で行われていた寄合(よりあい)について、内山節先生から聞いたこと重なった。寄合での話合いは(土地の境界、水の引き方など)、とにかく全員(もしくは利害が対立する双方)が合意に達するまで、現代では考えられないほど時間をかけて、何度も行われる。落とし所が見えてくるまで答えを急がない、それが知恵だった。この辺が、人類学と繋がりそうだけれど、次はどういう話になっていくだろうか。