日本屈指の霊山として名高い、玉置山のことを知ったのも、平井和正の著作『地球樹の女神』がきっかけでした。
当時足繁く玉置山に登拝していた平井和正は、その感動を幾度も後書きに綴り、名称設定を変えて作中にも登場させ、影響を受けた熱心な読者たちの多くが、この霊山を訪れることになりました。
その平井和正が、自らを玉置に導いてくれた不思議な本の著者として、『地球樹の女神』最終巻後書きで、氏名のみ明かしたのが「ハマモト・スエオ」というお名前でした。
すわ、これは読まねばならぬ! と(^_^)、ぼくは書店やら図書館やらを探しまわりまして。当時ネットも書店の検索システムもない上に、書名も出版社も秘されている訳ですから、地道に脚を使って探索するしかなかったんです。
発見したのが埼玉県は川越の図書館でした。なぜか初期三部作の三作目だけ置いてありまして、嬉々として借りて帰って夢中で読んで、すぐに全三冊を取り寄せて。(おそらく同様の問い合わせが多数あったようで、学校の公衆電話からドキドキしながら出版元の霞ヶ関書房に電話すると「ありますよ!」とかなり食い気味におばさんの声で返答がありました。(^_^;; )
浜本末造 初期三部作、『万世一系の原理と般若心経の謎』『終末の世の様相と明日への宣言』『人類は生き残れるか』は、まさに奇書と言って良いと思います。
もう何度となく読み返しましたけれど、はっきりと意味は解らず、それでもしばらくするとまた読みたくなるという、不思議な魅力があります。秘められた人類の歴史から、神々の系譜、物質世界の成り立ち、契約の柩(アーク)と三種の神宝、来るべき新世の預言、そして般若心経の謎、等々……著者が長年の古事記研究にて得た、あるいは神霊より教えられた事々が満載されており。
浜本さんは、和歌山の興行界で大成功なさった方ですが、昭和二十八年、四十七歳の頃より古事記の研究に没頭してゆかれます。古事記ゆかりの場所や神社を回られるうちに、多くの霊能者、研究者、宗教者と知り合い、他の教典を読んだり修行もしてみたけれど、ついに「なぜ平和は実現できないのか?」という疑問は氷解されなかった。
橘流写経に繋がる般若心経の書式を思いつかれたのは昭和四十一年の二月のこと。フト般若心経とは何かと思って文字を数えてみたら、二六六文字に題字の十字が加わって二七六文字になっている。二六六を割り切れる数を求めてみると十四と十九になった。半紙に五分四方の線を引いたら十四字の二十行になり、最初の行に題字を入れると、ピッタリ一杯に書ける。
これは何かあるな……と思っていたところに、肝硬変で入院間近というご婦人が尋ねてこられて、「この通り写経してお墓に埋めてごらん」とアドバイスしたところ、病気がすっかり治ってしまった。これは唯事ではない、ということで、それから毎日、写経を続けられたそうです。
昭和四十四年からは、ふと感じられるままに全国各地の神社で数百枚単位の写経を処置(三気の処置:埋め、燃やし、流す)して回られて、2年間で一万枚を越える写経をなさったとか。それらの経験を元に書かれたのが、昭和四十八年発行の『万世一系の原理と般若心経の謎』から続く一連の著作です。
般若心経とは、何万年も前に、ムー大陸の王が、いずれ来る末法の世に生けとし生きるもの(現代の我々)が、一体性波動の世界に渡る手助けになるように、王子に持たせて大陸に渡らせた秘文であると、浜本さんはおっしゃいます。
長年の間に秘儀は失われ、アフガニスタンにひっそり受け継がれていたものを、霊覚した玄奘三蔵が受け取りに行き、インドの釈迦族に伝え、釈尊はこの教えに影響を受けて出家し、悟りを開いた。その後、般若心経を現在の漢字の経文にまとめたのは、玄奘三蔵の子孫である、同名異人の三蔵法師であると。
一体性波動の世に渡るには、先祖から受け継いだり、自分で固めたりした、思凝り、因縁の粒を融かさないといけません。そしてそのもっとも確実な方法が、月:調和の経文である般若心経のフォースを最も効果的に活かせる、橘流写経なのです。
続きまっす。
浜本末造 著、『万世一系の原理と般若心経の謎』『終末の世の様相と明日への宣言』『人類は生き残れるか』は、現在もクロネコヤマトのブックサービスにて注文可能です。