じゃあ、前回予告した通り今回は

 

「表現の自由」

「言論の自由」

 

について以前書いた記事をコピペしたヤツをお見舞いするぜ!!

 

手抜きだ、手抜き♪

まぁコピペっていっても多少手直しはしてるけどな。

 

手抜きしたっていいだろ!!

オレのブログだ。。。。。

 

 

自由だ!!!!

 

 

でね。

 

自分で言うが、オレは自由気ままな性格だ。

何故?自由気ままな性格なのかというと
それは「他人の評価を気にしないから」だ。

 

いや、まったく気にしないということではないんだが、

他人の評価はあくまでも参考程度に聞くことにして、

決して他人の評価でネガティブな気持ちにならないってことね。

で、そんな自由気ままなオレが「自由」について
少しばかり書いてみようと思う。

あくまでも、オレ個人の見解であり異論もあるだろうが
「ひとつの考え方」として、ちょっと読んでみてくれ。

で。

良く目にする、耳にする
「アート」「言論の自由」「表現の自由」なんだが
どうも、その言葉を使えばなんでも許される免罪符だと思って使ってる人が

一定数いると思うんだよね。

思想、思考や信念を言語や芸術で表現する自由はあるし

それ自体を否定するつもりはないんだけど、

表現を武器にして他者を侮辱したり、不快にする自由は無ぇ~んじゃねーか?

 

と思うワケね。

表現の自由だとか、言論の自由だとか
「アート」や「自由」って言葉で
なんでもかんでも許されるワケじゃねーだろ?

言論、表現の自由があるなら、

それに対する「解釈の自由」もあるってことだ。
その解釈次第で「暴力による報復」を選択する自由も有りってことになるぞ。

勘違いしてもらっては困るんだが、別にオレは暴力を肯定してるワケじゃねーよ。
そんなもん良いワケねーんだからな。
 

暴力の自由なんか認めてたら人類なんか”アッ”という間に滅びちゃうよ。

ただ、なんでもかんでも「表現の自由」ってことで許されるなら
暴力も表現の自由ってことになるじゃねーか?

だって、暴力という「表現」なんだろ?

 

「わたしの芸術的右ストレートで気持ちを表現しました。」

 

的な?

言葉であれ、物理的な攻撃であれ
表現なんだから暴力を振るうのも自由って解釈が出来るじゃねーか?

暴力もいとわない思想の自由。
暴力を許さないという思想の自由。



どっちも自由だ。

 

そして、肉体的な傷も心の傷も傷は傷だ。

もちろん、暴力は法律で禁じられているから
それを行使すること自体許されないが
「解釈として」なら暴力という表現も否定は出来ないんじゃないか?

オレは思うんだよね。

「自由」って突き詰めると「不自由」と表裏一体であり
もっというと、不自由こそが自由を認識させているんだと。

それと、自由には節度と責任が無ければならんと思うワケね。
それが無ぇ~と結局「不自由」になるし、

節度も責任も無いってのは、そりゃただの傍若無人のワガママだ。

しかし、実際自由っていうと、その節度と責任がないがしろにされる。
というか、認識としては「自由=なんでもあり」って感じだろ?

人の物を奪う自由があるなら、自分も奪われるリスクがある。
人を攻撃する自由があるなら、自分も攻撃されるリスクがある。

自由というのは、なにも自分だけに与えられた権利じゃねーからな。
それが自由ってもんだ。

だから「自由」という言葉を出すと収拾がつかなくなるんだよ。

他人から奪われる、攻撃されると思ったら
おちおち寝てもいられねーだろ?
それは不自由な状況なんじゃねーか?

が。

大概「自由」の御旗を掲げてる者は
自らのリスクは負いたくないし、他人の自由を認めたがらない。
自分だけは枕を高くして寝ていたい。

だから、歪みが生じる。

よく自然だの、野生だのを「自由だなぁ~。」なんて言うが
実際はそれぞれがリスクを負ってるワケだし
自然という摂理(ルール)に則って生きてるワケだ。

むしろ、自然なんてもんは人間以上に
日常的に命のやりとりが行われてるワケで、物凄く不自由だと思うぞ。

それが自然のルールだからな。

まぁ、自然のルールって言っても
積み重ねた経験やデータに基づいて誰かが定めたものじゃなく
それこそ「自然そのもの」がルールであり
摂理に則って、粛々と種を繋いでるだけのことなんだけどな。

 

野生の動物と比べると肉体的に劣る人類は自然の摂理(客観的自由)を放棄し、

自らルールを科すこと(不自由)で自由を手に入れたんじゃねーの?


しかし、人類以外の生物は、その摂理をあるがまま受け入れ生きてんだろ?
命を奪い、奪われ種を繋いでるだけなんだよ。

客観的な自由が必ずしも自由ってワケじゃないと思うんだよね。

自由に生きるということは、自由に奪われるとイコールってことだ。
自分の自由を振りかざすなら、他者の自由も受け入れなければならんだろ?

 

 

自由=他由ではない

 

自分が由としても、それを他人が由とするとは限らんし。

 

だから他由(他人の自由)を受け入れられないなら
自由は自己完結出来る形で済ませることだね。

そもそも、不自由という環境が自由という不安定な環境から
人々を守ってくれてると思うから、オレは。



不自由=ルールだ

 

不自由を謳歌出来ない者に自由を謳歌するなんて出来ないんだよ。

とにかく、「自由」と「アート」は免罪符ではないし
本当の自由なんてもんは存在しないと思うね。

自由は存在するもんじゃなく、ある状況で感じるもんだ。

不自由(ルール)の中でほんの一瞬、自分の望む状況と一致した時、
心の緊張が解けた時「自由だ」って感じるもんじゃねーか?

自由を感じる状況は千差万別であり
どういう状況で自由を感じるかは個々の自由ってことだ。



自由は振りかざすものではなく、感じるものだっ!!

 

だいたい、「表現の自由」」だの「言論の自由」だのって
自由をルールで決めてること自体が矛盾なんだよ。

ルールで決められてるんだから
それは「自由」ではなく「保障」だろ?

で、その保障の基準が曖昧だから問題が起こるんだよ。

しかし、その基準を明確にしてしまうと、それは既に「自由」ではないから

 


「表現の保障」

「言論の保障」

 

 

に変えて、きちんとした基準を設けりゃ良いんだよ。

今現在「自由」と言われてるものは
蓄積された経験やデータに基づいて法律で定められた「保障」ってことだ。

本当の自由ってのは振りかざすものではなく
人それぞれある環境、ある状況で「感じるもの」なんじゃね?

どこで自由を感じるか?は個人の自由だ。

そして自由とは決して他者に主張するものではない。

「オレは自由だ!!」って主張し続けてるオレは思ってます♪

あくまでも「オレ個人の見解」だけどな。


ヒロPOM