学生時代の友人が、プチ同窓会で会ったその日の深夜に亡くなった。
いつもなら会ったときには「久しぶり〜😀」って彼女から気さくに声をかけてくれていたのに、今回はほとんど話さなかった。私は別件で途中で抜けたので「次に会ったときに話せばいいや」と思っていたのに。
『思考の学校』主催者の宮増先生が以前、「死はギフト」と言われていたけどよくわからなかった。質問する機会に恵まれたので聞いてみた。
「その方の死を知って、どんな感情が強く湧き上がったかを見つめる」ことが手がかりになる(と言われたと思う)とのことだった。
私は「人は明日、死ぬかもしれないって常に考えながら生きなきゃ」というのが彼女の死から受け取るべきメッセージなんだと思っていた。次があるとは思わずやれる時にやるべきなんだ。
そう思いながらも、時々この「死はギフト」と言う言葉を思い出していた。
今朝、あるWebミーティングで出席者と思うところをシェアしていた時にふと「彼女は年齢的には早く亡くなったけど、そのことのみで不幸だと思うのは間違いだ」という考えが何度も何度も浮かんでいたことを思い出す。
還暦前に突然亡くなってしまったけど、彼女はフルタイムで働きながら子供3人育て上げ孫まで生まれ、学生時代から今までテニスを続けて試合で常に結果を出し続けていた。家庭円満で(もちろん過去いろいろあったろうけど)趣味も継続していて羨ましい限りの人生だと思うのに、若くして亡くなったこと1点で彼女の人生が不幸だと思って欲しくない!
これって…
母は79歳で亡くなった。「まだ若かったのにねー」と言われるたびに嫌な氣分だったことを思い出した。
平均寿命より若く亡くなったことがそんなに残念なこと?負けとか?
本人だってもっと生きたかって思ってたよ。おんなじセリフ、手帳とノートの2つに書いてあったよ(本人の口から聞いたことはない。誰にも言わなかったらしい)
と、心の奥で炭火のように静かな怒りが燻っていたのだった。
それから
亡くなった人の氣持ちはその人にしかわからない
亡くなる時に幸せだったか不幸だったかは誰にもわからない、ってすごく思う。推測するのもおこがましい。
そして
誰もが必ず死ぬ。100%死ぬ。死を忌み嫌って極端に避けたり遠ざけようとするのは無意味だ
強く感じていたのはこれらだった。
特に怒りを伴って思っていたのは「若かったのに」だ。母が亡くなってもうすぐ8年。8年間抱き続けていた想いだ。