しかしナアマンは怒って去り、そして言った。 「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、 彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、 このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。」 (列王記第二5章11節)
そこで、彼はその一行の者を連れて神の人のところに引き返し、 彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを知りました。」(後略) (列王記第二5章15節)
私たちは「知っている」というより
「そう思っている」ということがどれだけあるでしょうか。
私たちは、自分が人生の問題に対する答えを
持っていると思っています。
自分の人生に対する神の御心を知っていると思っています。
ですから私たちは自分自身の道を進みながら、
自分の選択を主のやり方にふさわしいようにしようとしています。
持っていると思っています。
自分の人生に対する神の御心を知っていると思っています。
ですから私たちは自分自身の道を進みながら、
自分の選択を主のやり方にふさわしいようにしようとしています。
しかし主が真に導いて下さっていることを知ることが出来るのは、
神ご自身の導いておられる方向へ
自分自身を捧げきった後だけなのです。
神ご自身の導いておられる方向へ
自分自身を捧げきった後だけなのです。
主の道こそ、最善なのです。
-A. Fiebig
-A. Fiebig
He leadeth me, O blessed thought!
/主が私を導いてくださいます あぁ 麗しい考えです!
O words with heavenly comfort fraught.
/ああ 悩める者を慰める天のことば
What e'er I do, where e'er I be,
/私が何をしようとも 私がどこにいようとも
Still 'tis God's hand that leadeth me.
/私を導いてくださるのは主の御手です
-J. H. G.
/主が私を導いてくださいます あぁ 麗しい考えです!
O words with heavenly comfort fraught.
/ああ 悩める者を慰める天のことば
What e'er I do, where e'er I be,
/私が何をしようとも 私がどこにいようとも
Still 'tis God's hand that leadeth me.
/私を導いてくださるのは主の御手です
-J. H. G.