アメブロのあまりのつながりにくさに、
決別を決めました。
がまんの限界です。
今後はこちらでのみ、活動を続けます。
http://blogs.yahoo.co.jp/timothy_temote
以上。
今までのご愛顧に感謝しつつ。
アメブロのあまりのつながりにくさに、
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今までのご愛顧に感謝しつつ。
その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する
息子であった。彼は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう」
と言って、最後にその息子を遣わした。(マルコの福音書12章6節)
明らかに、私たちの主がたとえの中で「息子」と紹介したのは、
ご自分について言っておられます。
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、 今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに 帰ったのです。(ペテロの手紙第一2章25節)
ある先生が、子どもに一つの質問をした時の話があります。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、 何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の何の役にも立たず、 外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。 (マタイの福音書5章13節)
塩は非常に役に立つ物質です。
風味を増し加え、清め、そして溶かすことが出来ます。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、
雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、
いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に
置かれている競争を忍耐をもって走り続けようでは
ありませんか。(ヘブル人への手紙12章1節)
漁に使う網を調べていると、一羽の鵜がかかっていることに
気がつきました。
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。 「あなたは神の国から遠くない」(後略) (マルコの福音書12章34節)
現実は、儀式や形式に勝るものでなければなりません。
これがこの賢い律法学者の気がついたことです。
しかしナアマンは怒って去り、そして言った。 「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、 彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、 このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。」 (列王記第二5章11節)
そこで、彼はその一行の者を連れて神の人のところに引き返し、 彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを知りました。」(後略) (列王記第二5章15節)
私たちは「知っている」というより
「そう思っている」ということがどれだけあるでしょうか。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、 善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて 報いを受けることになるからです。 (コリント人への手紙第二5章10節)
神はすべての信仰者に対して、彼らの罪を思い出さないと
約束されました。(ヘブル8:12)
しかし、主のためになしたすべての業は、
さばきの座に現れるというのです。
私の力は、土器のかけらのようになり、かわききり、 私の舌は、上あごにくっついています。 あなたは私を死のちりの上に置かれます。 犬どもが私を取り囲み、 悪者どもの群れが、私を取り巻き、 私の手足を引き裂きました。 (詩篇22篇15,16節)
アフリカでは罪のない美しい鹿が追跡され、
追い回されることでしょう。
その力がなくなり、ちりのなかに倒れるまで。
私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。 あなたの恵みによって、私を覚えていてください。 主よ。あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇25篇7節)
繰り返しこの詩篇でダビデは何年も前の過去の罪を思い出し、
恥と深い後悔の念でいっぱいになっていました。