今回はテルアビブ近郊の遺跡、アンティパトリスについてご案内いたします。

 

アンティパトリスという名前はあまり聞き慣れない名前かと思いますが、現在はTel Afek(テル・アフェク)と呼ばれていて、ここには大きな泉があります。現在もコンコンと水が湧き出ており、短いながら地中海にそそぐヤルコン川の源流となっています。

 

今は、Yarkon-Tel Afek(ヤルコン-テル・アフェク)の名前で国立公園に指定されている場所です。緑の中に池や水場があり、週末になるとたくさんの家族連れが憩いを求めてやってきます。

 

 

 

ここには水量豊かな泉があったことから、古来より重要な拠点となっていたようです。古くは中期青銅器時代(紀元前24-16世紀)の墓が見つかっています。その少しあとの時代からは、城壁と宮殿跡が発掘され、その一部はエジプトのものだったことも分かっています。

エジプトからメソポタミアを結んだ「海の道」の重要な場所であったことから、エジプト王トトメス3世(紀元前15世紀)の碑文にも記されていました。

また、この遺跡からは、ペリシテ人が利用していた独特の陶器もたくさん見つかっています。

 

アンティパトリスという名前は、ヘロデ大王がこの遺跡を再建した際に、父親の名前をこの町に付けたことに由来します。紀元前9年のことと言われます。

 

旧約聖書の中ではアフェクと呼ばれていました。預言者サムエルが世に現れた頃、ここでペリシテ人との大きな戦いがありました。

 

イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、 イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。(サムエル記上4章1-2)

 

この戦いでペリシテ軍が陣を敷いたのが、アフェクでした。

初戦でイスラエルは負けたわけですが、神の箱があれば敵の手から救ってくださるだろう、と考えた民の長老たちは、当時神の箱が置かれていたシロへ人を遣わし戦場へ運んでこさせます。

前出の地図を見ると分かりますが、アフェクからシロまでは、1本の道で結ばれており、50kmほどの距離。健脚であれば1日ほどの道のりです。

 

ほどなく神の箱が届けられるのですが、そのことを聞いたペリシテ人は逆に奮い立ち、

 

「 ペリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたたちに仕えていたように、あなたたちが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」

こうしてペリシテ軍は戦い、イスラエル軍は打ち負かされて、それぞれの天幕に逃げ帰った。打撃は非常に大きく、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。 神の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死んだ。(サムエル記上4章1-2)

 

ペリシテ人による神の箱奪取のフレスコ画(ドゥラ・エウロポスのシナゴーグ)

 

イスラエル軍はエベン・エゼル(助けの石)という名の場所でしたが、戦いに大敗し3万人もの人が死んだだけでなく、なんと出エジプトからずっとイスラエルの民を導いてきた神の箱まで奪われてしまうことになります。

祭司エリの二人の息子も命を落とし、また、すでに老齢だった祭司エリも、シロでその報に接しショックのあまり倒れて亡くなってしまいます。

 

この戦いで士師の時代が終わり、預言者サムエルからダビデ王へつながっていく、新しい時代が始まるきっかけとなった戦いでした。

 

奪われた神の箱は、その後ペリシテ人の都市へ運ばれますが、腫れ物などの災いが続き、アシュドッドからガテ、エクロンとたらい回しにされ、やがてイスラエル側のキリヤテ・ヤリムという町へ運ばれていきます。

しかし、そこからエルサレムへ行くまで20年の歳月が必要でした。それは、ダビデが王となり、エルサレムを征服して都に定めた後のことになります。

 

さて時は下り、新約の時代に一度だけアンティパトリスの名前が聖書に出てきます。使徒言行録の中で、パウロは3回の伝道旅行を経て、エルサレムに上りますが、神殿内を歩いていた際に起こった暴動で捕らえられ、サンヘドリンと呼ばれた最高議会で証言します。

しかし埒があきませんし、その内、断食をもってパウロを殺すと誓った一団まで現れて、ローマ軍の保護のもとカイザリヤへ送られることとなります。紀元58年頃のことだったと思われますが、その途中で立ち寄ったのが、アンティパトリスでした。

 

千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。 また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ、 次のような内容の手紙を書いた。 (中略)

さて、歩兵たちは、命令どおりにパウロを引き取って、夜のうちにアンティパトリスまで連れて行き、 翌日、騎兵たちに護送を任せて兵営へ戻った。 騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡した。 総督は手紙を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキア州の出身だと分かると、 「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」と言った。そして、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた。(使徒言行録23章23-35)

 

当時の慣例がどうだったか分かりませんが、一人の囚人を護送するのに、合計470名もの歩兵・騎兵を伴わせるとは、物々しい大部隊で何だかすごいですね。ローマ市民のパウロを、殺害を誓った一団から絶対に守る、という決意の現れかなと思えます。

 

エルサレムからアンティパトリスまで、現代の道で約65km、そこからカエサリアまでがさらに64km、ちょうど中間地点だったことが分かります。

当時カイザリヤはユダ州を治めるために、ローマから遣わされた総督がいた港町。そこからエルサレムまでは整備された軍用道路がありましたが、軍人の足取りとはいえ、60km余りを1日(一晩)で歩いているので、相当に急いだのだと思われます。

その後、アンティパトリスからカイザリヤ間は騎兵のみとなり、所要時間はさらに短縮されたことでしょう。r

 

普通に歩くとすると、それぞれの区間で少なくとも途中で1泊はしたでしょうから、全部で3泊4日かそれ以上の道のりだったと思われます。アンティパトリスには、ローマ時代の舗装された道路跡が残っていて、訪れるたびにここを通ったであろうパウロと大勢の歩兵・騎兵の姿が思い浮かびます。

 

アンティパトリス-ローマ時代の道

 

さて、カイザリヤへ行ったパウロですが、「ヘロデの官邸(当時はローマ総督の官邸として利用)にパウロを留置しておくように命じた」と書いてるところから、驚くことに総督官邸内の部屋に留め置かれることになった、ということです。

まさか客間に通されたとは思いませんが、牢獄が備えられていたのか、下男用の部屋かなにかに閉じ込められたのか、発掘されたカイザリヤのヘロデ宮殿跡に立つと、どこだったかな?と想像たくましく考えてしまいます。

 

カイザリヤ-ヘロデ宮殿跡

 

また、官邸内にはパウロがローマ行きを訴えた部屋もありますが、この部分はカイザリヤをご案内する回に譲ります。

 

さて、アンティパテロスに話を戻すと、その後、紀元4世紀半ばの地震で町は衰退し、長い間町としてほとんど機能はしていなかったようです。その後十字軍時代(12-13世紀)要塞が建てられ、マムルーク朝(13-16世紀)、オスマン・トルコの時代(16-20世紀)にはアラビア語でRas al-Ayin(ラース・アル・アイン)「泉の頭」と呼ばれていました。

 

イスラエル建国後、その名前はヘブライ語風に改められ、アフェクに隣接するRosh ha-Ayin(ロッシュ・ハアイン)という町の名前となって、その名を留めています。

 

空港からも近いので、ちょっと寄り道してみてはいかがでしょう?