ヨルダン編の第6弾は、ヨルダンの首都アンマンをご紹介します。

 

アンマンは今から9000年以上も前から人が定住を始めた土地で、旧約聖書時代にはアンモン人の都市として「ラバ」と呼ばれていました。

大いなる(川)の意味を持つ「ラバ」は水の豊かな場所でした。

 

紀元前3世紀ころになると、エジプトのプトレマイオス朝の支配下になり、プトレマイオスⅡ世フィラデルフォスの名にちなんで、フィラデルフィアと呼ばれるようになりました。

このフィラデルフィアは、イエス様の時代のころには、ギリシャ支配の10の町デカポリスの一つとして数えられていました。

 

イスラム支配の時代になり、アンモン人の都市であったことからアンマンと呼ばれるようになり、ウマイヤ朝、アッバス朝に栄えていったが、地震や戦乱などで衰退していきました。

1921年にトランスヨルダンの首都とされ、1946年にヨルダン・ハシミテ王国の首都として現在に至っています。

 

古くから栄えた町ですので、見どころはたくさんありますが、弊社のツアーでよく訪れるところを中心にご紹介いたします。

 

最初はアンマン市内でも高いところにあり、市内を見渡せるアンマン城砦に行きましょう。

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今も残る遺跡の多くは、ローマ時代、ビザンチン時代、ウマイヤ朝時代のものです。

 

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ヘラクレス神殿

 

 

ウマイヤ朝宮殿

 

ローマ時代のヘラクレス神殿、ビザンチン時代の教会、ウマイヤ朝時代の宮殿が残っていて、各時代で中心地だったことが伺えます。

あまり時代の境目がわからない遺跡なので、2000年前のローマ時代の神殿跡の横に1300年前のウマイヤ朝時代の宮殿があったりして、時代が次々と変わります。ガイドの話を聞きながらいつの時代なのか感覚が麻痺してくることもあります。

 

以前はここに考古学博物館があり、ヨルダンで出土された多くの発掘物が展示されていました。

その中には、現イスラエルのクムランで発見された死海写本の一部も展示されていましたが、展示のされ方が雑すぎて訪れた人を驚かせていました。

 

ヨルダンのツアー中、「コレは死海写本の一部なんですよ」、とご案内すると、イスラエルにあるものと全然違いますね!と驚かれました。

私も初めて見た時には、目を疑いました。

死海写本が入れられたショーケースには、ヒビが入り外気にも触れている状態でした。

 

死海写本は聖書考古学にとって20世紀最大の発見物と言われるます。エルサレムにあるイスラエル博物館の死海写本館では温度・湿度・光など全てが管理され、劣化が進まないように注意されて展示されています。

劣化が進む可能性のあるものは、コピーが展示され、オリジナルはさらに厳重に管理されているくらいなのです。

それがヨルダンでは・・・

現在は考古学博物館はダウンタウンに移り、管理がしっかりされるようになったようです⁈

 

また聖書中でこのラバ(アンマン)で起こったことの一つが、イスラエルのダビデ王の時代、アンモン人との戦いです。

ダビデ王は、戦士ウリヤの妻バテシェバを自らの妃にするため、戦いの最前線だったここにウリヤを送り、討死するように仕向けました。

それが、この城塞です。(サムエル記下11章)

 

 

城塞からダウンタウンに下りてきてご案内するところと言えば、ヨルダンで最大の規模のローマ劇場です。

 

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6000人を収容できる劇場は、丘の斜面を利用して作られています。客席の一番上にはアテネ神が置かれていたとされる場所があります。舞台は北西に向いていて、夕日の時間帯は自然の舞台装置が発揮され素晴らしい美しさになる劇場です。

きれいに修復されていて、今でもイベントなどで使用されています。

音響効果もばっちりで、上の写真の中で人が複数人立っているオーケストラの位置に立ち手をたたいたり、歌ったりすると客席の上の方まで響いてよく聞こえます。

 

ローマ劇場の舞台のそばには、遊牧民族のベドウィンと呼ばれる砂漠の生活様式を紹介した民族博物館と、ヨルダンの民族衣装や装身具を紹介した民族伝統博物館があります。

 

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劇場を出たところには列柱街道があり、ローマ時代、フィラデルフィアと呼ばれていた当時を思い起こさせます。

 

 

歴史の宝庫、ヨルダンへのツアーはまだ再開できていませんが、ご案内できるようになりましたら、ぜひご参加をご検討ください。