今回はパウロの出身地、タルソスをご案内いたします。
前回のシリアのアンティオキアもそうでしたが、一般のトルコツアーでは訪れることの少ない街の一つです。
この街は、ローマ帝国時代のキリキヤ州の州都として栄え、学府も置かれ、アテネ、アレキサンドリヤに次ぐ学問の街でもありました。
紀元前41年タルソスにやってきたローマの将軍アントニウスは、エジプトの女王クレオパトラを呼び、この街で会い、恋に落ちました。
ローマ時代の城壁の門が残っていますが、クレオパトラがこの門を通って、街に入ったので「クレオパトラの門」と呼ばれています。
タルソスはパウロの出身地として使徒言行録(使徒行伝・使徒の働きなど)21:39~22:3に、パウロ自身の言葉で「わたしはタルソス生まれのユダヤ人」と言明しています。
ここを案内するときは、「パウロはこの街の出身でしたし、ダマスコ途上でキリストと出会い大回心した後、この街に戻って10年の間、この門を通って何度も出入りしたはずですので『パウロの門』とも呼ばれています。」と、始めることにしています。
この「パウロの門」から1km少しのところにパウロの井戸と呼ばれる遺跡があります。
タルソスで唯一のパウロにゆかりのある場所です。
伝承によると、ここがパウロの生家だと言われています。1990年代まではこの井戸だけが住宅地の中にポツンとあるだけでしたが、井戸の周辺を発掘したところ、ローマ時代の住居の跡も見つかり、今では遺跡として整備されました。
この井戸の水を使った産湯に浸かったんでしょうか?
パウロの井戸のすぐ近くに、ローマ時代の街道が見つかっています。
スーパーを作るために整地しようと掘ったところ、古代の道が見つかってしまい、スーパー建設の予定地が変わってしまったそうですが、さすが、トルコ! 掘れば遺跡が出てきます。
街道沿いには商店が並んでいたそうで、街の中心地だったことが伺えます。
パウロの井戸からほど近い場所ですので、幼少期だけでなく成長してからも、パウロもこの道を何度となく歩いたことでしょう。
タルソスの近郊にはキュドノス川が流れていて、落差はそうでもないですが、豊富な水量と幅の広い滝があります。
ここを訪れると、たくさんの子供たちが来ていて、夏の暑い日などは飛び込んだり、泳いだりしています。
トルコの子供たちはとても人懐こく、かわいいです。
こんな少年たちを見ていたら、パウロも少年のころ、こんな人懐っこかったのかなぁ、と想像しちゃいますね。
パウロには「沈黙の10年間」と言われる時間があります。
ダマスコ途上での大回心の後、3年間はダマスコで過ごし(ガラテヤ書1~2章)、エルサレムへ上っています。
その後、ユダヤ人に殺されそうになったパウロはカイザリヤからタルソに送り出され(使徒9:30)、次に登場するのは、11章になってからです。
アンティオキアでこの福音が広がっていることがエルサレムに伝わり、バルナバがアンティオキアに遣わされますが、パウロが必要と感じたバルナバは、タルソスに行きます。25~26節にはパウロを「捜しに・・・見つけ出す」とありますが、バルナバがタルソスでサウロのことを人に訊ねながら探し出さなければいけないほど、隠れた生活をしていたのかもしれませんね。
バルナバによってもう一度見出されたサウロは、このような道を通り、アンティオキアに向かったのでしょうね。
アンティオキアで丸一年の間バルナバと共に過ごしています。
回心の後14年が経っての2回目のエルサレム訪問は、バルナバと一緒に行っていることから、アンティオキア滞在の後だったことが分かりますので、エルサレムとアンティオキアの間の10年間はここタルソスで過ごしています。
タルソスではどのような生活をしていたのでしょうね。
ユダヤ人として、エルサレムで高名なラビ(ユダヤ教教師)に学び、パリサイ派ユダヤ人として
成長するはずが、十字架にかけられて処刑された人間の弟子として、故郷に帰ってきたわけですので、肩身の狭い思いをしながら生きていたのかもしれないですね。
けれども、パウロはフィリピの信徒への手紙3章の中で、自らの生い立ちを語りながら、学んできたものはキリストのゆえに役に立たないものと変わったと、語っています。
タルソスを訪れて、パウロの幼少期に触れると、もっとパウロのことが身近に感じられるようになりますよ。ご一緒にいかがでしょう!