アジアの西に位置するトルコ。


国内をチグリス川、ユーフラテス川が流れていて、はるか昔より文明の栄えていたトルコには、シルクロードが通っていて、人の往来も盛んでした。



トルコにはいろいろな見どころがたくさんありますが、聖書的な観点から見ても、これまた見どころにあふれた国です。
旧約聖書ではトルコの東、イランとアルメニアとの国境の近くに、ノアの箱舟がたどり着いたとされるアララテ山があり、また、アブラハムがカナンの地に来る前に住んでいたハランもシリアとの国境近くにあります。
新約聖書では使徒言行録(使徒行伝・使徒の働きなど)や書簡でパウロの第1回~3回の伝道の様子が描かれ、黙示録では七つの教会に対するヨハネの手紙を見ることができます。

聖書の舞台の一つ、シリアのアンティオキアをご紹介したいと思います。


現在、アンタキヤと呼ばれる街が、シリアとの国境近くにあります。

トルコへのツアーはいろいろありますが、この街を含めたコースはなかなかありません。

アンタキヤは1938年までシリア領でしたが、住民投票でトルコに組み込まれた街です。
ここアンタキヤが、パウロの伝道の拠点になった、シリアのアンティオキアで、第1~3回の伝道にはすべてこのアンティオキアから出発しています。

アンティオキアは、アレキサンダー大王の死後、紀元前300年にセレウコス・ニカトールがその父アンティオコスの名をつけた町で、ローマ時代、シリア州の州都として栄えた町でした。

パウロの時代、アンティオキアにはローマ帝国内のあらゆる人種が住んでいて、ユダヤ人も多く住んでいました。
ステパノの殉教後に起こった迫害のため、エルサレムにいたユダヤ人クリスチャンが、この街にやってきました。この人たちが持ってきたものが、「イエスのロギア」と呼ばれる、イエスさまの言葉でした。アンティオキアには「イエスのロギア」が満ちていたと言われます。

一説では、ルカによる福音書、使徒言行録を書いたとされるルカもこのアンティオキア出身だったとも言われます。

パウロもこの街に滞在している中でイエスさまの言葉に触れる機会が多くあり、直接会うことのできなかったイエスさまのお姿に、言葉を通して触れていたのでしょうね。


そして、ここアンティオキアで弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになります。
他民族を受け入れる素地のあった町でしたので、キリスト教もここアンティオキアで広がっていき、エルサレムに次いで大きな初代教会ができました。

残念ながら、現在の町中にパウロの足跡を見つけることはできませんが、山の中腹に「ペテロの洞窟教会」と呼ばれる洞窟があります。



ガラテヤ書(2:11)を見るとペテロがアンティオキアに来たことが記されています。
キリスト教が広がっていったあと、迫害がここアンティオキアでも厳しくなっていく中、ペテロの指導の下、この洞窟にキリスト教徒が逃げ込んでいったともいわれています。

洞窟内には、アルパ(A)とオメガ(ω)と書かれた祭壇と、ペテロの像があります。

 

前述のように、現在の街中にはパウロの足跡を見つけることはできませんが、ここペテロの洞窟教会からアンティオキアの街を見渡すと、はるか2千年前に祈られて伝道に出発し、またこの街に帰ってきて、2回目、3回目と出かけて行ったパウロやバルナバ、初代教会へと思いをはせることができます。何も残っていないだけにかえって想像力が掻き立てられますね。

 



ちなみに聖書には同じくアンティオコスの名をつけたアンティオキアと呼ばれる街がもう一つ登場しますが、こちらはピシディア州のアンティオキアと呼ばれています。
聖書中にはシリアの~、ピシディアの~とは、書いてないのでわかりにくいですね。