浦上教会は、原爆の落とされた爆心地近くの丘の上に立つ教会です。
 
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禁教令の時代、ここには庄屋の屋敷があり、毎年の正月には宗門改めの踏絵が行われていました。
 
禁教令も最後のころ、ここ浦上の信徒が、大浦天主堂に出かけ、プチジャン神父と出会い1865年の「信徒発見」の出来事が起こりましたアップ
 
しかし、まだ禁教令のさなかでしたので、1867年になると信徒は捕えられ「浦上4番くずれ」と呼ばれるキリシタンの弾圧事件が起こりました。
捕えられた信徒は、1868年になると、留配(るはい)となり、鹿児島、津和野、萩、岡山、和歌山、伊勢、名古屋、金沢までにも送られていきます。
 
この事件の最中に、明治政府が発足(1868年)しますが、新政府も禁教令を解かなかったために、このような事件が起こりました。
 
1873年になり、外国からの要請でようやく禁教の高札が撤去され、キリシタンの信仰が自由になると、浦上に帰ってくることが出来ましたが、その頃には家は荒らされていて畑なども奪われている状況でした。
その後、庄屋がこの屋敷を手放すことになり、神父と信徒はこの場所を購入し、教会を建てました。
 
天主堂が完成したのは、1914年のことです。教会の献堂式は1915年に行われ、大浦天主堂で「信徒発見」があった後、ちょうど50年目のことでした。
 
ところが、1945年8月9日、長崎に原爆が落とされ、爆心地近くにあった浦上教会は倒壊してしまいました。
 
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浦上出身の神父さんが倒壊した教会を訪れると、がれきとなった教会の中にマリア像の頭部を発見したそうです。
 
像は、頭部だけになり、目がくぼんでしまい、痛ましい姿になっていたそうですが、神父さんは大事に抱えて、函館のトラピスト修道院に持って帰られたそうです。
 
1990年になり、浦上の地に帰ってきたマリアの頭部は、「被爆のマリア像」として、小聖堂に置かれ、ここを訪れたときには、心から平和への祈りを覚えます。