temaibu21(いぶき) -17ページ目

temaibu21(いぶき)

うつ闘病記。
みなさんに僕と同じような辛さを経験してほしくありません。
みなさんが笑顔で過ごせるよう、僕の経験を伝えていきます。

教員が忙しいということは分かっていましたが、想像以上でした。毎日残業で、月の残業時間は150時間程。休みも月に1日だけでした。それでも、夢を叶えた喜びから、1年目はその忙しさを「充実」と捉えていました。今思えば恐ろしいことです。

 

1年目は学年の補佐係でした。普段は学位主任の補佐をするかたちで、学年経営にかかわりました。日常的には学年の会計などの事務、行事などがあればその準備、休みの先生が出れば担任代行という仕事内容でした。当然、この他に自分の授業と部活動が入ってきます。

 

「教員は授業で勝負」と言われる通り、やはり授業は大事なものです。僕は毎回の授業が勝負くらいのつもりで、準備に準備を重ねて授業に臨んでいました。今でも覚えていますが、教員になって初めての授業は、割と英語を苦手とする生徒の多いクラスで全て英語で自己紹介をしましたが、途中ジュスチャーも交えたりしながら、英語で笑いを取ることができました。そして、丸一時間、生徒達に英語のコミュニケーション活動をさせました。あまりにも盛り上がり、隣のクラスの迷惑になるのでは?と思うほどでした。授業後、生徒が僕のところへ来て、「先生の授業、凄いです!」と目を輝かせながら言ってくれたこと、つい昨日のようです。

本当に授業は毎回工夫し、「この題材をどのように伝えれば分かりやすいか。そして、知的好奇心を刺激できるか。」と頭を悩ませながら、それでも楽しく教材研究できました。しかし、学年の仕事や部活動との兼ね合いで、授業の準備をするのは朝方でした。放課後は部活動。その後学年の仕事。疲れ果てて帰宅し、すぐに眠りにつき、朝3時か4時に起きて授業の準備をする。そんな毎日でした。

 

1年目、1番キツかったのは部活動です。それというのも、全く競技経験のない競技の顧問となったからです。半年くらいは、競技を見ていても何がなんだかという感じで、技術的な指導は一切できませんでした。そのあたりは生徒も承知の上なので、生徒主体の練習で、僕は安全面での管理や、練習態度についての指導、人間関係の円滑化など、そちらの方面に重きを置いていました。

それでも大会に行けば他の学校の先生方と競技についての話をしたり、大会運営をしたりしなければなりません。何をしてよいのかさっぱりで、正直毎回早く帰りたいと思っていました。他の学校の先生方との親睦会も苦痛でした。

それでも、1年間顧問を続けたことで、最後の方は紅白戦で笛を吹いたり、人数が合わないときは生徒に混じって紅白戦に出たり、そのくらいはできるようになりました。

 

心身ともに疲れ果てましたが、何とか1年目を乗り切りました。

 

ここで大きな転機が訪れます。2年目の公務分掌の内示です。

3月下旬、校長室に呼ばれ、次年度の校務分掌の内示を受けました。

いくつかあるコース(科といいましょうか)の中で、1番進学に重きを置いているコース(学校により、特別進学コース、国公立大学進学コースなど、そういった名称のコースです)の担任を命じられました。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この続きはNo.2で。

 

更新が遅くなってしまいました。

8日に東京へ日帰りで遊びに行ったのですが、その反動で一昨日と昨日は満身創痍でした。

正確に言えば神奈川のラーメン「中村屋」へ行きたかったのですが、台風の接近もあり、急遽予定を変更して、新幹線ですぐに帰れるよう、都内で食事をするにとどめました。

 

さて、前回は新聞の記事をきっかけに、諦めていた夢に再び挑戦する決心をするに至るまでをお話しました。

 

その日から、さっそく勉強を始めました。几帳面な僕は、小学校~高校の教科書、プリントを全て押し入れにしまっていました。

アルバイトと並行してして勉強の毎日。アルバイトへ行く前に図書館で勉強し、仕事の休憩中に勉強し、仕事が終わったら勉強し、休みの日も勉強し…。そんな1年を過ごしました。

独学でしたし、勉強自体久しぶりのことなので思うようなペースではありませんでしたが、1年間目標に向かって努力できたことで、自分への自信がついた1年でもありました。

 

迎えたセンター試験。現実を思い知らされました。全く歯が立ちませんでした。絶望感に打ちひしがれながら会場を後にしたことを覚えています。

自己採点の結果は300点台。国立大学など、夢のまた夢の成績でした。一応出願はしましたが、当然、目標とする国立大学は不合格でした。

 

しかし、1年間努力を続けたことで、教員になるということは、自分の中で、「憧れ」から「現実的な目標」へと変わりました。なので、具体的にどうすればこの目標に届くことができるのかを考えることができるようになりました。

 

3月。恥を忍んで、両親に頭を下げました。

「合格できなかったら、それでキッパリ諦めます。その時はどこかにちゃんと就職します。1年間だけ、予備校に通わせてください。」

 

1年間、僕の頑張りを見ていた両親は、何も言わずにお金を工面してくれました。感謝してもしきれないことです。

 

6年間続けたアルバイトを辞め、1年間、予備校で必死に勉強しました。少ない日でも1日10時間。1年間で勉強しなかった日は1日だけでした。(地元の花火大会で、はじめからこの日だけは勉強を忘れる日にしようと考えていました。)

予備校で、目標を同じとする仲間と切磋琢磨できた時間は、一生の宝です。

4月当初、どこの大学もE判定だった僕ですが、最終的には目標とする国立大学の判定をBまで上げることができました。

 

そして迎えた2度目のセンター試験。会心の出来でした。国立大学の二次試験も、十分な対策ができていたので、試験が終わった瞬間に合格を確信しました。そのくらい、合格のために全てを捧げた1年でした。

 

合格発表当日、当然緊張もしました。しかし、自信もありました。「やれるだけのことはやった。」という思いで、結果が出るのを待ちました。

そして・・・合格!

嬉しさか、安堵か、自分への誇りか、様々な感情で涙が溢れ出しました。合格を知った母の涙も忘れられません。自分1人ではなく、たくさんの人に支えられての合格でした。

 

大学では、同級生より年が上ということもありましたが、変に気を遣われることもなく、たくさんの友人ができ、充実した大学生活を送りました。

そして、4年次の夏、今の学校への採用が決まりました。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「③教員になってから休職へ至るまでの経緯」は明日の更新予定です。

 

この話は書こうと思えば何万字と書けそうなのですが、僕のブログのメインはうつとの戦いですので、僕が教員になるまでの経緯は簡潔にまとめたいと思います(No.1とNo.2)。機会があれば、その間にあった細かなエピソードも紹介できればと思います。

 

僕は高校3年次、不登校でした。理由は、僕と両親との進路意識の溝です。

僕の目標とする進学先はあまりにも学費が高いところで、両親は猛反対。両親の言い分がもっともだと思いましたし、弟が2人いたもので、「僕が進路を諦めることで、2人には希望の進路についてほしい」との思いで、それまでの夢を諦めました。

しかし、それでスパッと気持ちを切り替えることはできませんでした。それまで順調に学校生活を送ってきた僕ですが、心の支えであった目標を失い、学校へ行く意味を見いだせなくなってしまいました。

 

そのまま、進学も就職もせず、卒業しました。

お小遣いくらいは自分で稼がなければと、卒業後すぐに服飾店でアルバイトを始めました。

接客業を選んだ理由は、当時の僕は人と話すことが苦手だったので、たくさんの人と話して、その苦手意識を克服したいと思ったからです。

 

アルバイトを始めて2年目か3年目頃でしょうか。何となくではありますが、「教員になりたいな」と思うようになりました。

しかし、「今更、無理だよ」と思うだけで、本当に教員になろうとは思いませんでした。そう、ただの憧れでした。

 

アルバイトを始めて5年目。「このままアルバイトのままではいけないよな…。」と、当然ながら自分の将来に不安を抱き始めました。

しかし、やりたいことはありませんでした。「教員」になれれば、それは願ったり叶ったりでしょうが、それは無理な話でしたから、最初から僕の将来の選択肢にはありませんでした。

 

そんなある日、ある新聞の記事が目にとまりました。

国立大学の前期試験の受験倍率です。

地元の国立大学の教育学部の受験倍率が2倍強でした。

国立大学前期日程ですから、ある程度センター試験で点数を取った人が出願してきての2倍強とは、決して小さな数字ではありません。

しかし、そんな事も知らなかった僕は、単純にこう思いました。

「え?大学って、こんなに簡単に入れるんだ?」

 

そう思った途端、これまで無意識に押さえつけていた感情が溢れ出しました。

「教員になりたい!」

 

そして、誓いました。

「今更、無理かもしれない。でも、やらないで後悔するより、やって後悔しよう。」

 

まさにこの日が、人生のターニングポイントでした。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

No.2は明後日の更新予定です。