temaibu21(いぶき)

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うつ闘病記。
みなさんに僕と同じような辛さを経験してほしくありません。
みなさんが笑顔で過ごせるよう、僕の経験を伝えていきます。

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この1年間、うつ病と向き合いながら、自分の中で考えたことです。

答えはまだ先でしょうが、今現在の心境を綴ります。

 

あくまで個人の考えであり、「特定の誰か」或いは「貴方」の考えを否定する意図は一切ありません。

 

認知のゆがみについて

考えてみれば当然のことだが、指摘されて初めて気がついたことがある。僕(いや、我々)は「客観的に」ではなく、「主観的に」この世界を見ている。同じAという出来事があったとしても、それを巡る解釈は、当然僕と貴方とでは違う。我々は全ての出来事を「そのまま見ている」のではなく、「自分のフィルターを通して見ている」のである。言い換えれば、我々はみなその個々人のメガネ越しにこの世界を見ている。

そのメガネの屈折率(つまり、認知のゆがみ)は各個人によって異なる。ゆがみと記したが、これは決してネガティブなニュアンスとしてではなく、単純にその個人個人の認知のクセと捉えていただきたい。

話を僕個人に戻す。僕はこの認知のゆがみが大きい方だ。それが今現在、自分の生きづらさと直結している。例えば何か些細な出来事があると、そこから最悪のシナリオを思い浮かべる(破局形成)。そして、その最悪のシナリオを回避するため、考え得る全ての方略の準備をする。いや、準備をしなければならないと思ってしまう(べき思考)。

こういった認知にゆがみは戦局を見誤り、かつ(いや、故に)打つべき手を誤ってしまう。自分の認知のクセに気付き、都度、目の前の出来事(大きく言えば自分の生きる世界)を客観視し、とるべき方策を柔軟に考える。そうできるようになることが、僕にとってのこれからの大きな課題だ。

この1年間、うつ病と向き合いながら、自分の中で考えたことです。

答えはまだ先でしょうが、今現在の心境を綴ります。

 

あくまで個人の考えであり、「特定の誰か」或いは「貴方」の考えを否定する意図は一切ありません。

 

過去、現在、未来の関係について

「過去は変えられないが、未来は変えられる。」よく入学式で教員が使いそうな言葉である。現に僕も使ったことがある。この1年で、この言葉の残酷さを知った。過去にトラウマがある人にとって、この言葉がいかに残酷であることか…。

それとはまた別な視点で、個人的にこの1年で過去と現在との関係、そして現在と未来との関係についての考えが変わった。

まず、過去についての認識が変わった。今現在、「過去というものは現在との関係性によって成り立つもの」と考えている。(これについて反論が多々あることは承知の上だ。)

例えば、僕は昨年度の「卒業生を送り出すことの出来なかった過去」を人生最大の悔いとして、今でも心を痛めている。しかし、いつか卒業生を送り出したとき、もしかしたら、「あの経験があったから、今回は頑張れた!」と思えるのかもしれない。そうなれば、同じ過去の出来事に関して、その解釈が更新される。(過去に辛い経験をされた方に対し、フロイト的なトラウマの発想を否定する意図はない。)

また、未来について。これ(未来)はそもそも存在すらしていないものだ。結局は、今という現在進行形の結果が未来であり、そして、その未来に到達した時点で、未来は過去へと変わる。

未来へのビジョンは必要である。しかし、未来を操作することは原理的にできない。なぜなら、「未来は存在しない」からだ。よって僕が未来に対してできることは、現在進行形としての今この瞬間に最善を尽くすこと。それだけだ。そして、それが同時に過去の解釈の更新にも繋がる。

もちろん、これは所謂「よい未来」、「悪い未来」、「よい過去」、「悪い過去」のいずれにも発展する可能性を含む。

 

※こう考えるということは、僕の中にアドラー心理学の影響が多々あることを証明している。そのことを客観的に受け止め、その善悪や正否ではなく、これから先の人生を歩むにあたって、自分の人生観を如何にすべきかという視点で考える上での判断材料の1つとしたい。

この1年間、うつ病と向き合いながら、自分の中で考えたことです。

答えはまだ先でしょうが、今現在の心境を綴ります。

 

あくまで個人の考えであり、「特定の誰か」或いは「貴方」の考えを否定する意図は一切ありません。

 

 

自己肯定感について

他者の承認による自己肯定感は一時的なもので、結局は自分を自分で認めるか否かの判断材料に過ぎず、寧ろそれによって自己肯定感に過剰な揺らぎが生じてしまい、自己の確立の妨げとなる恐れさえある。他者からの承認を得ることが最優先事項となってしまい、自分の思考や行動に「自分というもの」を投影することができなってしまい、結果、「自分というアイデンティティー」を失ってしまうからだ。(他者の承認によって自己承認を得ている人を批判する意図はない。)

自己肯定感は他者承認によるものではなく、自己受容によるものが望ましいと考える。まずは自分を受け入れる。「ありのままの自分」を、「そのままの自分」を認め、そして慈しむ。

人は他人と自分とを比較して、「他人にあって自分にないもの」ばかりに注目したがる。幸せと不幸があったら、不幸に注目したがる。仮に右手を失ったとして、もう機能を失った右手のことを嘆き、「動く左手」には一切注目をしない。この例でいう、「動く左手」に着目し、それに誇りや喜び、自己としてのアイデンティティーを感じること。僕はそれを自己受容と呼ぶ。もちろん、時間をかけながら、「失われた右手」も受け入れていく。慈しんでゆく。

他者からの承認ではなく、自己受容の積み重ねこそが、揺るぎのない自己肯定感の根拠となる。