目の前にコップがあり、冷えた水が入っている。
手を伸ばせば、そのコップを掴むことができる。
コップは確かに目の前にある。
しかし、そのコップは私が見ているコップであって、他人が見ているコップとは違う。コップがそこにあるという事実があり、そのコップに手を伸ばそうとしている自分が存在するという事実はある。
でもそのコップは、本当に客観的事実としてのコップなのだろうか?
もしかすると、私は、コップを見ているという夢を見ているに過ぎないのではないか‥‥。
誰かが、そこにコップなんかないよ!といった瞬間に、私が捉えてていたはずの事実は消え去るのか? 誰かが、確かに、それは冷えた水が入ったコップに間違いないと言ってくれれば、私の認識している現象は、事実になるのか?
とすると、私の認識は、誰かの認識に依存する?
ははぁ、これが関係性の謎なんだな!
‥‥
梅雨時になると、じめじめした空気の中で、思考が停止する時間がある。
そんな時に、喉が渇いたからといって、不用意にコップの水を飲もうとしてはいけない。
そのコップが、本当に存在しているのかどうか? 考え始めてしまうからです。
どうやら幻想の迷路の入口は、コップにあるらしい。
喉が渇いたからといって、不用意にコップの水を飲んではいけない。
‥‥
とある下町の喫茶店。
初老の男性がコップをじっと見つめながら、何かぶつぶつ‥‥呟いている。
とっくの昔に飲み干している珈琲カップの脇に、安物のコップが置いてある。
既に、その中に、水は入っていない‥‥。
早いですね。
今年も半年が過ぎました。
残すところ半年です。
ポジティブな指向性を持っている人は、
こういう場合、「もう残り半年」とは言わないそうです。
「まだ半年も残っている!」…これがポジティブな捉え方なのだそうです。
私は、常に前向きに考えようと心掛けていますが、ついつい、「あぁ、もう半年過ぎてしまったのか…」と溜息が洩れてしまいます。
時間の流れの感覚は、その人の年齢に比例するといわれていますね。
3歳のお子ちゃまの1年は、人生の3分の1だから長く感じるし(子供は長いとも感じない)、50歳の方の1年は50分の1だから、1年は短く感じるのが当たり前だとか…。
一日24時間。
これは誰もが公平に持っている客観的時間ですね。
だから、1年という時間もまた、客観的にはみんな公平なのは当たり前。
なのに感覚が異なるのは、心の中にもっている時間の尺度が異なるからとなりますね。
集中していると時間が なかったように感じられることもあります。
あれれっと思っている間に、数時間が過ぎていた…なんてことがありますよね。
ということは、1日のうち集中している時間をいくつか作っていたら、気がつかない内に1日が過ぎていることもあるわけですね。これが時間を長く感じさせるコツかもしれません。なぜなら、時間を感じていないのですからねそもそも時間が存在しないわけで…。
今年も半年が過ぎました。
残すところ半年です。
ポジティブな指向性を持っている人は、
こういう場合、「もう残り半年」とは言わないそうです。
「まだ半年も残っている!」…これがポジティブな捉え方なのだそうです。
私は、常に前向きに考えようと心掛けていますが、ついつい、「あぁ、もう半年過ぎてしまったのか…」と溜息が洩れてしまいます。
時間の流れの感覚は、その人の年齢に比例するといわれていますね。
3歳のお子ちゃまの1年は、人生の3分の1だから長く感じるし(子供は長いとも感じない)、50歳の方の1年は50分の1だから、1年は短く感じるのが当たり前だとか…。
一日24時間。
これは誰もが公平に持っている客観的時間ですね。
だから、1年という時間もまた、客観的にはみんな公平なのは当たり前。
なのに感覚が異なるのは、心の中にもっている時間の尺度が異なるからとなりますね。
集中していると時間が なかったように感じられることもあります。
あれれっと思っている間に、数時間が過ぎていた…なんてことがありますよね。
ということは、1日のうち集中している時間をいくつか作っていたら、気がつかない内に1日が過ぎていることもあるわけですね。これが時間を長く感じさせるコツかもしれません。なぜなら、時間を感じていないのですからねそもそも時間が存在しないわけで…。
今期の将棋名人戦は、歴史に残る激戦でしたね。
名人羽生善治さんに郷田九段が挑戦する戦いは3勝3敗の五分で最終戦になだれ込み、一昨日決着がついた。羽生名人の逆転防衛だった。
そんな中、「シリコンバレーから将棋を観る」(中央公論新社 2009年4月刊)を読んでいた。著者は、web2.0という言葉を流行させたIT界の識者である梅田望夫氏。氏は既に15年近くシリコンバレーに住んでいる。そして、実は隠れた将棋ファンであったわけだ。だから、シリコンバレーから将棋を観るという、なんとも不思議なタイトルの観戦記、棋士人物伝とでもいえる本著を書いたわけですね。
何より面白い視点は、将棋をささない将棋ファンということ。
将棋が好きだというと、ある程度の棋力がある人が多い。またある程度の棋力がないと、「私は将棋が好きです」とは他人に言いにくい雰囲気があるわけで、その点で、将棋ファンの新しい心情を反映させた面白い視点だと思いましたね。
将棋は強くはないけれど、将棋が好きだ。それのどこが悪いのか? そうですね。将棋というのは自分で指すか指さないかなど問題ではないわけで、このゲームそのものが好きだという人は多いはず。そんな視点からIT界の巨人が描いた将棋の世界だったので、面白くないはずはありませんでしたね。
私も将棋ファンの一人。
自分はある程度の棋力があると信じていましたが、最近、強豪と呼ばれる方と対戦する機会があって、ほとんど完敗してしまいました。めちゃ強い。
自分の将棋の情けなさに腹が立って仕方なかったのですが、残念ながら私は梅田さんの境地には届かず、まだまだ勝負に拘る将棋ファンであリ続けたいと思っています。
名人羽生善治さんに郷田九段が挑戦する戦いは3勝3敗の五分で最終戦になだれ込み、一昨日決着がついた。羽生名人の逆転防衛だった。
そんな中、「シリコンバレーから将棋を観る」(中央公論新社 2009年4月刊)を読んでいた。著者は、web2.0という言葉を流行させたIT界の識者である梅田望夫氏。氏は既に15年近くシリコンバレーに住んでいる。そして、実は隠れた将棋ファンであったわけだ。だから、シリコンバレーから将棋を観るという、なんとも不思議なタイトルの観戦記、棋士人物伝とでもいえる本著を書いたわけですね。
何より面白い視点は、将棋をささない将棋ファンということ。
将棋が好きだというと、ある程度の棋力がある人が多い。またある程度の棋力がないと、「私は将棋が好きです」とは他人に言いにくい雰囲気があるわけで、その点で、将棋ファンの新しい心情を反映させた面白い視点だと思いましたね。
将棋は強くはないけれど、将棋が好きだ。それのどこが悪いのか? そうですね。将棋というのは自分で指すか指さないかなど問題ではないわけで、このゲームそのものが好きだという人は多いはず。そんな視点からIT界の巨人が描いた将棋の世界だったので、面白くないはずはありませんでしたね。
私も将棋ファンの一人。
自分はある程度の棋力があると信じていましたが、最近、強豪と呼ばれる方と対戦する機会があって、ほとんど完敗してしまいました。めちゃ強い。
自分の将棋の情けなさに腹が立って仕方なかったのですが、残念ながら私は梅田さんの境地には届かず、まだまだ勝負に拘る将棋ファンであリ続けたいと思っています。
アメリカの分子発生生物学者 ジョン・メディナ氏が書いた「脳の力を100%活用する ブレイン・ルール」(NHK出版 2009年5月25日刊 小野木明恵訳)は専門書でありながら、脳の活力増強のためのハウトゥも満載された楽しい読み物だ。
そもそも分子発生生物学という言葉もなじみが薄く、脳の研究に取り組む研究者の領域が実に様々だということに驚かせる。脳科学者という言葉が最も分かりやすいが、それでも全てを包括しているわけではないのでしょう。
そんな中の翻訳出版。
脳の活力を増強させるための12のルールがDVD付きで解説されている。
そのルールを上げてみると、「運動」「サバイバル」「配線」「注意」「短期記憶」「長期記憶」「睡眠」「ストレス」「感覚の統合」「視覚」「ジェンダー」「探検」の12。
記憶や感覚、視覚などは、いわば人間の五感に関する指摘なので分りやすいが、最初のルールに「運動」が取り上げられていることに興味が沸いた。
つまり、適度な運動は脳の活性化に役立つという指摘だ。
「脳は、不安定な野外の環境で生き延びるという課題に関連した問題を解決するように設計されているらしい。しかも、ほとんどつねに動きながら解決していかなければならない。このことを脳の性能限界と呼ぼう」
という指摘ですね。
人間が地球という自然界で生き延びてきたその知恵は、脳の発達によっていることは理解できますが、要は、敵の生物との生存競争に勝ち残ってきた歴史から見て、一定のところに安住していたのでは、本来もっている脳の機能を十分に活用できないものだという指摘らしいのですね。
確かに、何か考え事をする時は、座ってじっと考えるより、うろうろしたり、散歩したりしたほうが脳が働いているような気はする。ウォーキングなどの適度な運動刺激があると、肉体的には爽やかになり、脳が働いているような気もする。
これも、一つの脳の機能の検証結果なのでしょうが‥‥とはいえ、こういう知恵は、もともと人間が実行してきたことでもありますね。京都の哲学の道などもそうですし‥。
してみると、脳科学の研究の成果は、人間がこれまで「知恵」として、その理由を問わずとも実行してきた様々な「知」を解明しているに過ぎないのかもしれませんね。
大切なのは、昔から伝えられてきた「知恵」のほうなのでしょう。
どう思いますか?
そもそも分子発生生物学という言葉もなじみが薄く、脳の研究に取り組む研究者の領域が実に様々だということに驚かせる。脳科学者という言葉が最も分かりやすいが、それでも全てを包括しているわけではないのでしょう。
そんな中の翻訳出版。
脳の活力を増強させるための12のルールがDVD付きで解説されている。
そのルールを上げてみると、「運動」「サバイバル」「配線」「注意」「短期記憶」「長期記憶」「睡眠」「ストレス」「感覚の統合」「視覚」「ジェンダー」「探検」の12。
記憶や感覚、視覚などは、いわば人間の五感に関する指摘なので分りやすいが、最初のルールに「運動」が取り上げられていることに興味が沸いた。
つまり、適度な運動は脳の活性化に役立つという指摘だ。
「脳は、不安定な野外の環境で生き延びるという課題に関連した問題を解決するように設計されているらしい。しかも、ほとんどつねに動きながら解決していかなければならない。このことを脳の性能限界と呼ぼう」
という指摘ですね。
人間が地球という自然界で生き延びてきたその知恵は、脳の発達によっていることは理解できますが、要は、敵の生物との生存競争に勝ち残ってきた歴史から見て、一定のところに安住していたのでは、本来もっている脳の機能を十分に活用できないものだという指摘らしいのですね。
確かに、何か考え事をする時は、座ってじっと考えるより、うろうろしたり、散歩したりしたほうが脳が働いているような気はする。ウォーキングなどの適度な運動刺激があると、肉体的には爽やかになり、脳が働いているような気もする。
これも、一つの脳の機能の検証結果なのでしょうが‥‥とはいえ、こういう知恵は、もともと人間が実行してきたことでもありますね。京都の哲学の道などもそうですし‥。
してみると、脳科学の研究の成果は、人間がこれまで「知恵」として、その理由を問わずとも実行してきた様々な「知」を解明しているに過ぎないのかもしれませんね。
大切なのは、昔から伝えられてきた「知恵」のほうなのでしょう。
どう思いますか?
すべての「事業」は、関係づくりに始まり、関係づくりに終わる。
この「事業」という言葉を、「仕事」とか「趣味」、あるいは「発想」とか「企画」とか、少し大袈裟に「人間が生きること」とか「未来」と置き換えてもいい。どんな言葉も当て嵌まるのが「関係づくり」の不思議なところだと思うんですね。
商品開発やサービスのアイデアを発想する時、しばしば活用される方法論に「二項対立的概念のぶつけ合い」がありますね。つまり一見何の関係もなさそうなテーマや直感的に導き出されたキーワード等を意図的につなぎ合わせてみると、意外性に満ちた面白いアイデアが発見されるという方法です。
この方法論にも、実は「関係性」が深く関わっている。人間の潜在意識の中に眠っているアイデアの素材(記憶の素)が、脳の中で激しく融合し合おうという原理を活用しているのがこの方法ですから、文字通り脳の中の関係づくりといえるのではないでしょうか。そして異質なもの、無関係と思われるものの劇的な融合の中に、新しさを発見する試みは、今では比較的成功する方法論として位置づけられていますね。
しかしこの「関係づくり」で難しいところは、関係をつくりたい対象が他人だというところでしょうか? 勝手な思い込みで親しい関係である筈だとか、新しい仕事づくりのために人脈という関係づくりをしたいという思いだけでは、本来の関係づくりはできないということなのですね。
そんなことを考えている時、一冊の対談集に出会いました。
脳科学者 茂木健一郎さんと福井県にある曹洞宗霊泉寺の禅師 南 直哉さん(青森県恐山の院代も務めていらっしゃいます)との対談集「人は死ぬから生きられる~脳科学者と禅僧の問答」(新潮新書2009年4月刊)です。
2004年から2007年まで間歇的に続いた対談をまとめた対話集です。本著の中に、関係性に触れたとても興味深い対話がありましたので、その一部を掲載してみます。
(本著第三章 人生は無常である の中の「あなた」がいて「わたし」がいる…という節の中で、珍しく経済的な側面を取り上げ、人間が何故バブルを繰り返すかという根本に触れながら対話が続いています……)
南 本来的に人間は、他人を経由しなければ自分を構成できない。だからこそ騙される。(バブルに乗っかってしまうという意味)…根本的に、自分というものは自分でないものをあてにして存在している…。
茂木 (この指摘を受けて人間の化粧行動の分析の事例を出しながら…)化粧行動の研究は、自己が社会的にどう構築されていくかの議論です。類型的だけど男は基本的に権力を欲し、女性は美しくなりたいと願う。これはどちらも決定的に他者に依存しているんですよね。
南 他人に見られないと成立しない。
茂木 そうです、こうなると人間の欲望で他者の視線や力に依存しないものはない。
南 やっぱり、根本的に自己の存在というのは投機的なんですよ。化粧もしかり、権力もしかり。仏教の縁起というのもまさにこのことだと思うんですよ。すべては関係において存在する、という。
すべては関係において存在する……。
(部分の抜き出しなので分かりにくい部分はご勘弁ください) ここで語られている「関係性」とは、方法としての関係ではなく、人間の本質としての「関係性」なのですね。人間の存在自体が他者なくしてありえない(認識できない)という、すごく怖い話ですが、このことが私にとって重要な気づきとなったわけです。つまり、大切なことは……、
「関係づくり」とは、「方法」ではなく、「目的」そのものである、ということなのですね。
すべての「事業」は、関係づくりに始まり、関係づくりに終わる。ここで言う「関係づくり」とは、自分の都合だけで考える「関係」ではなく、関係作りによって得られる結果に価値を見出すということでもなく、関係そのものが目的であるということ……。どう思いますか?
この「事業」という言葉を、「仕事」とか「趣味」、あるいは「発想」とか「企画」とか、少し大袈裟に「人間が生きること」とか「未来」と置き換えてもいい。どんな言葉も当て嵌まるのが「関係づくり」の不思議なところだと思うんですね。
商品開発やサービスのアイデアを発想する時、しばしば活用される方法論に「二項対立的概念のぶつけ合い」がありますね。つまり一見何の関係もなさそうなテーマや直感的に導き出されたキーワード等を意図的につなぎ合わせてみると、意外性に満ちた面白いアイデアが発見されるという方法です。
この方法論にも、実は「関係性」が深く関わっている。人間の潜在意識の中に眠っているアイデアの素材(記憶の素)が、脳の中で激しく融合し合おうという原理を活用しているのがこの方法ですから、文字通り脳の中の関係づくりといえるのではないでしょうか。そして異質なもの、無関係と思われるものの劇的な融合の中に、新しさを発見する試みは、今では比較的成功する方法論として位置づけられていますね。
しかしこの「関係づくり」で難しいところは、関係をつくりたい対象が他人だというところでしょうか? 勝手な思い込みで親しい関係である筈だとか、新しい仕事づくりのために人脈という関係づくりをしたいという思いだけでは、本来の関係づくりはできないということなのですね。
そんなことを考えている時、一冊の対談集に出会いました。
脳科学者 茂木健一郎さんと福井県にある曹洞宗霊泉寺の禅師 南 直哉さん(青森県恐山の院代も務めていらっしゃいます)との対談集「人は死ぬから生きられる~脳科学者と禅僧の問答」(新潮新書2009年4月刊)です。
2004年から2007年まで間歇的に続いた対談をまとめた対話集です。本著の中に、関係性に触れたとても興味深い対話がありましたので、その一部を掲載してみます。
(本著第三章 人生は無常である の中の「あなた」がいて「わたし」がいる…という節の中で、珍しく経済的な側面を取り上げ、人間が何故バブルを繰り返すかという根本に触れながら対話が続いています……)
南 本来的に人間は、他人を経由しなければ自分を構成できない。だからこそ騙される。(バブルに乗っかってしまうという意味)…根本的に、自分というものは自分でないものをあてにして存在している…。
茂木 (この指摘を受けて人間の化粧行動の分析の事例を出しながら…)化粧行動の研究は、自己が社会的にどう構築されていくかの議論です。類型的だけど男は基本的に権力を欲し、女性は美しくなりたいと願う。これはどちらも決定的に他者に依存しているんですよね。
南 他人に見られないと成立しない。
茂木 そうです、こうなると人間の欲望で他者の視線や力に依存しないものはない。
南 やっぱり、根本的に自己の存在というのは投機的なんですよ。化粧もしかり、権力もしかり。仏教の縁起というのもまさにこのことだと思うんですよ。すべては関係において存在する、という。
すべては関係において存在する……。
(部分の抜き出しなので分かりにくい部分はご勘弁ください) ここで語られている「関係性」とは、方法としての関係ではなく、人間の本質としての「関係性」なのですね。人間の存在自体が他者なくしてありえない(認識できない)という、すごく怖い話ですが、このことが私にとって重要な気づきとなったわけです。つまり、大切なことは……、
「関係づくり」とは、「方法」ではなく、「目的」そのものである、ということなのですね。
すべての「事業」は、関係づくりに始まり、関係づくりに終わる。ここで言う「関係づくり」とは、自分の都合だけで考える「関係」ではなく、関係作りによって得られる結果に価値を見出すということでもなく、関係そのものが目的であるということ……。どう思いますか?