「不徳の致すところであります。」
かつては、公衆の面前で謝罪する時、日本男子は、この言葉を使って深々と頭を下げた。(江戸時代であれば、その後切腹?)
現代。「不徳の致すところ」という言葉が使われる場面に遭遇することはなくなり、心が感じられない「謝罪の儀式」がまかり通っているように思える。
企業不祥事や不条理な殺人の多発。
「再発防止」について「万全を尽くす」という文言が判で押したように繰り返されるが、顔の表情が見えない頭を下げている人間には、本当に再発しないという確証はないもんね‥という本音が見え隠れする。
ところで、「不徳の致すところ」という言葉の原典は、皆様ご存知の「近思録」にある教えから来ていますね。
「近思録」は、儒学に端を発し、その後否定的に発展させた「朱子学」の入門書として、古くは江戸時代から、近くは戦前の昭和時代までの間、日本人の「あるべき姿」を定義した規範の書として存在していたわけです。その中にある「九徳最も好し」という徳のあり方が、特にリーダーたるべき人間の姿(人望)として謳われていたわけです。
「寛にして栗」(寛大だが、しまりがある)
「柔にして立」(柔和だが、事が処理できる)
「愿にして恭」(まじめだが、丁寧でつっけんどんでない)
「乱にして敬」(事を治める能力があるが、慎み深い)
「擾にして毅」(おとなしいが、内が強い)
「直にして温」(正直・率直だが、温和)
「簡にして廉」(大まかだが、しっかりしている)
「剛にして塞」(剛健だが、内も充実)
「彊にして義」(強勇だが、ただしい)
この見事な二項対立的な表現は、九つの徳として人のあるべき姿を表現しており、「簡潔で完璧」と評価されていますね。この九つの「徳」に対照して、不祥事を起してしまった時に発するのが「不徳の致すところ」となるのでありますね。
とはいえ、自分の生き様を振り返るにつけ、この九徳の一つでもあれば、もう少し違った人生を歩けたかもしれないと思いつつ、「気づいた時が始まり。何かを始めるのに、早すぎるということはなく、また遅すぎるということもない」という言葉に勇気付けられて、やっていくしかないのでありますね。
かつての教育は、まずこの九徳の丸暗記から始まったらしいのですが、バーチャルなネット社会の中に逃避的に隠れようとする老若男女の最近の傾向を見るにつけ、ネット利用の基本的心構えとして、改めて「ネット利用九徳の書」があるといいな‥‥などと思っています。