落書きの消えた街 | 考える道具を考える

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落書き
 一時期、落書きが街に溢れた。

 ガード下の壁、商店街のシャッター、路地の板壁‥。何処にでもあった。

 それが、いつの間にか、消えた。正確には消されたといったほうがいいのかも知れない。

 落書きが良いはずはない。しかし、落書きが消された街は、何故か一層寂れているように感じる。

 寺山修司さんのこんな言葉が思い出される。

 ‥‥‥落書きというのは、堕胎された言葉ではないだろうか? それは誰に祝福されることもなく、書物世界における「家なき子」として、ときには永遠に「読まれる」ことなしに消失してしまうかもしれない運命を負っているのである。だが、だからこそ、「全体のなかに存在する諸関係の総体」(マラルメ)とまったく切り離され、事物を命名もしなければ、事物の呼びかけに答えることもしない‥まさに擬似事物として、壁の汚点のようにひっそりと時をかぞえているのである。‥‥‥「暴力としての言語」より

 一つの時代を変革しようとするときに、名もなき庶民が書き付ける社会というキャンバスへのメッセージ。しかし、それは、街の景観にとっては、まったくもって予期しない「言葉の、あるいは画像の侵略」でしかないのでしょう。

 コンクリートにチョークで描かれた子供達の絵が、あちこちの路地にあった時代‥そこには、しかし、街が未来を受け入れようとするある意志があったともいえないか? 

 オレンジ色の照明が闇をくぐっていく。車で夜の都下のニュータウンを疾走していた時、あまりにも整然と美しく、勿論、落書きなどないその街に、何故だか人の生活が感じられないのでした。

 (写真はNoriyuki Itoさんのブログから、あんまり奇麗だったので拝借しました。)