今年の2月16日から開始したこのブログ。
丁度、本日で100回目の日記を書くことになった。
3ヵ月半のこの期間、「町場で流行しているから‥自分でもやってみっか‥」などという安易な気持ちで始めて、それも思いつくままに書き続けてきて、自分の中にどのような変化が起きたのか‥あるいは、何も変わっていないのか‥。
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度々の引用になりますが、茂木健一郎先生の「ひらめき脳」には、「記憶の編集」という脳の機能についての章があります。
脳を1つのデータベースのサーバだと考えれば、意識的にしろ無意識的にしろ、人間の脳は絶え間なく情報を蓄積しているのだそうだ。様々な情報の中で、特にに印象深い情報は、長期的な記憶として蓄積される。
日常的な情報は、反復する日常行動の判断に反映されるが、必要ないと認められた情報は、私の解釈では「ごみ箱」に自動的に移動して、ほとんど活用されないという。
長期的な情報として記憶された情報も、‥‥ここがやっかいなことなのですが‥‥脳が勝手に情報を置き換え、組み合わせなどをして、「記憶を編集」するのだとう。
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さてさて、私は、「編集」という言葉が好きだ。記憶という脳の機能が、意識的に編集されるというシーンは、体験を共有化したことのあるいろいろな人と話をしていて感じることが随分ある。
その共通体験のことを話すその人の言葉を聞きながら、「その話は、自分のいいように解釈しているだけだろ?」と思わず言いたくなることもしばしばだ。
しかし、その人にとっては、その記憶は「真実」であって、私が記憶している「共通体験の認識」のほうが間違っている場合だってありうる。
その人は自分の感情にまかせて共通体験を解釈しているのだが、私はといえば、いかにも客観的だと言わんがための「話し方」をしているに過ぎず、結局は、自分流の解釈を述べているだけなのかもしれない‥。
だからこそ、記憶の中にある「事実」と自分の「解釈や認識」くらい分けておきたいという気持ちがどこかにあって、記憶の編集の作用を自分で意識的にコントロールしたいと思うのだが‥これがどうも、そう都合よくはいないようだ。
私の脳のデータベースを制御するには、さらに多くの情報の取り込みが必要なのかもしれない。
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さて、このブログ。今は、はじめた以上は中途半端で止めたくないな‥という思いで書き続けているものの、私が期待する「情報の客観性を制御する役割」があるような気もしている。
私が編集長だったら、ほとんど「ボツ」の私の文章が、自分の「記憶の編集」を意識的に制御するのに役立つとしたら、もう少し続けて見る価値はありそうだ‥。
ブログの価値を判断するには、もう少し書き続けることが必要なのかもしれない。