舞台の言語 | 考える道具を考える

考える道具を考える

The instrument which I think

日本の舞台芸術が全盛時代を迎えている、らしい。

世界のニナガワが演出する舞台は、チケットを購入することすら困難だ。
レミゼラブル、オペラ座の怪人などに代表される日本版ミュージカルでは、何百回と鑑賞する一群の人々がいるらしい。

そして唐十郎さんの唐組のテントも健在だ。

‥‥

舞台上で展開されるのは、「科白」。

かつて三島由紀夫さんは、戯曲作成の基本、とりわけ言葉の遣い方について述べていたことがある。

つまり、舞台の幕が開いた時、最初にやることは、ストーリィの設定やキャストについての説明を、科白のやりとりの中で表現していかなければならないということだったように記憶している。例えば‥

  「やぁ、久しぶりだね!」
   という簡単な科白には、
  「これはこれは、隣町に住む大工の棟梁、山田さんではないですか?」

などという。登場した人物のキャラクターを科白で説明するんですね。

普通のコミュニケーションではありえない科白が、舞台では「説明的」に放たれる。

この科白回しに違和感はない。その物語の世界に入るには、そういう科白が必要なんだと思う。

翻って日常の中で‥こんな言葉使いをする人はいない。しかも、日本人は、特別説明的な言葉を好まないように思う。阿吽の呼吸などと言って、分かっていることの前提が多すぎる、ように思う。

舞台の全盛とは、単なる非日常体験に対する関心の高まりだけでなく、日本人が失ったコミュニケーションに対する渇望があり、こうした科白の仕掛けが働いていると思うのは、私だけだろうか?