喬木(たかぎ)村という村を知っている人は、どのくらいいるだろう? 長野県民ですら知らない人は多い。そもそも読み方も分からないのでは。


飯田市の隣に位置し、天竜川東の山間部にある村だ。人口は6600人ほどで、農業・林業を主要の産業にしている。特産品としては伝統工芸の「阿島傘」、在来種の山芋を使用した「矢筈こんにゃく」がある。


またこの村の出身者の著名人として、椋 鳩十(むく はとじゅう)がいる。鹿児島県立図書館の館長をつとめながら小説家・児童文学者として多くの作品を発表している。小学校の国語の授業で椋鳩十が書いた「大造じいさんと雁」という話しを読んだ記憶がある。


ベテラン猟師である大造じいさんが雁を狩るために巧妙な罠をしかけるが、「残雪(翼の一部に白い羽があることから)」と猟師達から名付けれた雁のリーダーに何度も裏をかかれ、狩りに失敗し続ける。そして大造じいさんと残雪が出合ってから3年目の冬に仲間の雁をハヤブサから助けるために、その身を投げ出し残雪は傷つき、地に落ちる。それを見ていた大造じいさんは残雪の治療をする。春が来て、傷が癒えまた残雪が羽ばたけるようになると、大造じいさんが残雪を空に放つところで話しは終わる。


大造じいさんが、再び山で残雪に出合ったら、以前と同じように捕まえようとするであろう。しかしこの話しから伝わってくるのは人と動物・自然との近さだ。大造じいさんが残雪を助けたのは、雁をただ狩りの対象として見るのではなく、互いに同じ自然を生きるものとして対等であるという感情があったため、卑怯なことはしたくなかったし、傷ついた相手に対していたわりの情が生まれたのだろう。


椋鳩十はこのような人間と動物・自然の関係をモチーフにした話しが多いが、これは喬木村の村人が動物・自然に対してもっている感情であるといっていい。この椋鳩十の作品と近い話しはこの地域で伝承されている。




4月16日土曜日に私は車を使って喬木村に向かった。正直にいうと喬木村を最初から目的にしていたわけではない。どこか秘境のイメージがある南信州にいき、この季節なので桜を見てみたいと思ったにすぎない。


飯田インターを降りて、東に向かい阿島橋を渡り、天竜川を越えた先が喬木村にあたる。ちょうどこの橋を渡った阿島(あじま)が村の中心にあたり、喬木村の役場がある。椋鳩十もこの地域に少年時代過ごしており、現在「椋鳩十記念館」がある。


阿島で山間部から流れる小川川が、天竜川合流するが、その小川川沿いに県道251号が整備されており、この道を川をさかのぼるように車をはしらせる。川を谷間として両岸に山が迫ってくる。



てくてく歩いていくと・・・・。 山をみると山桜が咲いている。


 















てくてく歩いていくと・・・・。 群生して咲いている桜も












曲がりくねった道を15分ほど行くと、少し開けた場所に、大造じいさんがいるような少ないながらも住居が集まった地域がある。「氏乗(うじのり)」という名の集落だ。


そこを通ると神社の幟旗が見え、神社の脇には見事な桜が。車を止め、神社に向かう。てくてく歩いていくと・・・・。

                            


てくてく歩いていくと・・・・。 「宇治三柱神社」
氏乗の氏神様。


私がおとずれた日が宵宮にあたり、明日が本祭りにあたるという。


例年であったら、宵宮と本祭の日は獅子舞が集落を練り歩くが、今年は東日本大震災のことを考慮して中止。









てくてく歩いていくと・・・・。 神社の脇の空き地に桜が咲いている。


この桜の下で舞う獅子を見たかった。残念。








てくてく歩いていくと・・・・。 桜が咲いている空き地は、昭和33年(1958)まで喬木第二小学校氏乗分教所があった場所。










てくてく歩いていくと・・・・。

明治42年(1909)に、入学記念として植樹されたといわれる八重咲枝垂れのエドヒガン。樹齢100年をこえる。この小学校跡にある桜の中で一番の古木。高さ22m 幹の周囲3.3m。喬木村の天然記念物。



てくてく歩いていくと・・・・。 この桜の下には黄色の水仙が植えられており、桜のピンクと空の青を背景に色が映える。
















てくてく歩いていくと・・・・。


てくてく歩いていくと・・・・。 桜が咲いている片隅にテントが張っており、そこのおばちゃんが桜を観に来る観光客にお茶や漬物を振舞っていた。








てくてく歩いていくと・・・・。

シソが入った桜茶とワラビのおひたし等



撮影をしていると、一人の老人が近づいてきて桜の説明をしてくれた。地元に生まれ、育った多田治人さん(昭和2年生まれ)。名刺を頂いたがそこに「氏乗桜インストラクター」と肩書きが記されていた。

てくてく歩いていくと・・・・。
ここにあった小学校出身で、懐かしそうに指をさしながら、ここに玄関があって、ここに職員室があってとか説明してくれた。


またこの桜があった場所についてこう語ってくれた。


「校庭の一部で、桜の下はちょうど砂場でした。昔は右の太い枝がもっと校庭側を向いていたので、そこに縄をくくりつけてブランコにして遊んだものです」


またこの桜を咲くのを合図に、昔は稲の苗代づくりをはじめたということも教えてくれた。今は早稲の品種になったので当然このような季節感はない。


多田さんに子どもの頃のことをうかがうと、戦前や昭和20年代の頃は木材の仕事が多くあり、今よりたくさんの人がいたという。しかし昭和30年代に入ると、家族で外にでていく者も多くなりしだいに集落に人がいなくなったようだ。その結果としてここにあった小学校もなくなることとなる。


「かっては次男・三男の出稼ぎということはあったけど、家族でいなくなるようなことはなかった。この土地は豊かだったと思うよ。稲はこのような土地だからあまりとれないが、麦や芋なんかは畑でとれるし、川にいけば魚を、山にいけば山菜はあるし、また鳥や猪を罠にかけるなんていうこともできる。これらのものを木材や炭なんかと一緒にマチで売って現金を得ることだってできた。映画といったような娯楽がなく、木材や炭が売れなくなって現金収入がここにいたら得ることができないことが大きかったのですかね。贅沢な生活をしなければ、ここに住み続けることだってできたはずだと思いますが」


多田さんの話だと現在60世帯、200人ほどの人が氏乗に住んでいるとのこと。高齢化がすすみ、小学校に通うような子どもは3人。



てくてく歩いていくと・・・・。 写真を撮りつつ、この場所を去ろうとすると、道の向こうから女の子が「おじちゃん、写真見せて」と言って走ってきた。


写真を見せつつ、話しをすると、この女の子はこの集落では貴重な地元の小学生であった。


この女の子もカメラを持っており、写真を撮っていたようだったので、彼女が撮影した桜の写真を見せてもらった。


そしてその時、桜の花びらが女の子の足元に落ちてきた。それを拾い上げ「桜ってきれいだよね」と言い、指でつまんで、その女の子は私に見せた。


それから私との会話に飽きたのか、いきなり「バイバイ」と言ってまた来た道を走って戻っていった。


素朴な感じで、春風のような暖かさを、その女の子に感じた。


この少女は、どのように成長していくのだろう。できればこのムラでずっといてほしいと感じた。



てくてく歩いていくと・・・・。


てくてく歩いていくと・・・・。

松本城の南を流れる女鳥羽川沿いに観光客がよく訪れる四柱神社があるが、その北側にある「緑町」というマチに、ひっそりと「辰巳の庭」がある。三角の形をしており、地元の人が通う飲食店に囲まれたかたちで存在する。昭和50年(1975)そして平成7年(1995)に整備され現在のような公園となった。


昔の様子を緑町でクリーニング店を営み、市議も勤めた飯沼瑛さんに尋ねた。


「もともとここは料亭の“鯛萬”の敷地で、そこの倉庫とか建物があったのですが、戦後すぐに火事で焼け、再建する時、この場所が市の道路拡張予定地にされた関係で、そのまま建物を建てずに空き地として残ったのです。


結局道路は拡張しなかったので、この場所にマチの皆で木々などを植えて小さな公園のようにしました。ここのことを皆“ロータリー”と呼んでおり、ここにあった電飾で飾られた大きなアーチがマチの象徴でした。松本城の形をしたネオンがひかり、それは華やかなものでした。今も昔もこの周辺は飲食店が多い場所ですが、このアーチがあることで盛り場という感じがしました。実際以前の方が周囲にある役場関係や銀行関係の多くの人が昼も夜もこのマチを利用し、電飾のアーチにふさわしい賑わいがありました」


ロータリーと呼ばれていた場所は、狭いものの、地元の人が待ち合わせに利用するなどしてマチの中心として機能していた。しかし木々は植えてあるものの、荒れて汚くなっていた。そこで昭和50年(1975)に緑町住民や商店主を中心にお金を出し合い、木々を植え直すなどして整備をした。「辰巳の庭」と呼ぶようになったのはこれを期にしている。江戸時代にはこの場所に、松本城の辰巳の御殿があったとされたことに基づく名称だ。


江戸時代には、現在ある「辰巳の庭」の三角地帯の東側に松本城を囲む総堀があったが、明治に入りそれは埋め立てられて、飲食店街が形成されていくこととなる。辰巳の庭は、総堀の内側にあった土塁があった場所と推定されており、それも明治に入り撤去され、かって武家屋敷であった場所もマチ場化していくこととなる。


平成に入り、昭和25年(1950)につくられてから、マチの象徴のようにあったアーチが老朽化のために取り壊されたものの、市の援助もあり、平成7年(1995)に井戸を掘り、せせらぎをつくり現在ある公園になっていく。


春になると辰巳の庭で咲く桜も、緑町の住民の希望で、この時に植えられたものである。


かってネオン輝くアーチであったのが、今やこの桜や、地下水流れるせせらぎがマチの象徴になっている。緑町は飲食店を中心としたマチであったが、それがかってのような輝きを取り戻せない中、周囲にマンションが近年建設され、マチの様相もかわりつつある。辰巳の庭での象徴の変化が、このことを写し取っているような感じがする。



てくてく歩いていくと・・・・。 高遠の城址公園から苗が移された3本のコヒガンザクラで、松本城の周辺に咲く桜としては、もっとも早く開花する桜である。








てくてく歩いていくと・・・・。 昼食時、満開の桜の下、近くにある市役所の職員がベンチで座って、弁当を食べている。友人だろうか、先輩・後輩であろうか。















上に掲載した写真はすべて、先週の水曜日13日に撮影したものであるが、昨日17日、日曜日に行くともう葉桜になりつつあった。松本城の桜はやっと満開に近づいたという状態なのに。


てくてく歩いていくと・・・・。 17日に撮影した辰巳の庭の桜。花びらが散りはじめ、葉桜になってきている。


先週写真を撮ってから、まだ1週間もたっていなのに、桜の花は儚い。














てくてく歩いていくと・・・・。

てくてく歩いていくと・・・・。


松本城で今週月曜日の11日に開花宣言がされた。昨年より5日遅い開花宣言であった。


松本城管理事務所が、お城外堀にソメイヨシノの観測木を決めて、その木に花が何輪か咲くことを基準にして、管理事務所の所長によって毎年宣言される。管理事務所で独自観測をはじめて4年目になる。


開花宣言の翌日、松本城周辺を歩いてみると、桜の枝には、まだ多くはつぼみであるが、真新しい淡いピンク色をした花びらを開かしているものも何輪か見られた。またつぼみといっても、固い殻を破って花びらを覗かし、ふくらみをおび、いつ花が咲いてもおかしくない状態(上写真、松本城外堀の桜)。



てくてく歩いていくと・・・・。



てくてく歩いていくと・・・・。 内堀西側にあるシダレザクラ(上・左写真)


上の写真など一見すると、満開を迎えていろようであるが、しかし

枝をよく見ると、まだ完全に花を開いてない状態のものも多い。












てくてく歩いていくと・・・・。

けなげな桜PART1  木の幹にひっそり咲いている桜


てくてく歩いていくと・・・・。
けなげな桜PART2 根っこの部分から咲いている桜



















てくてく歩いていくと・・・・。 学生達で松本城埋橋近くが、いつになく混雑していた。少し時期的に早い修学旅行生かと思ったが、地元の蟻ヶ崎高校の学生(左写真)。


1年生が先生に連れられて松本城を散策していた。友達同士グループになりおしゃべりをしながら、お城や桜を見ていた。


城を勉強するためということではなく、学生に聞くと「散歩にきただけ」とのこと。



新入生の親睦をはかるために先生方が企画したのだろう。





てくてく歩いていくと・・・・。 鳩にびびる女子高生。そんなにびびらなくても・・・・・。初々しい姿だ。




















てくてく歩いていくと・・・・。


てくてく歩いていくと・・・・。 桜以外にも松本城周辺は、この時期たくさんの花を見ることができる(上・左写真)

















例年、桜の開花宣言から3日後の今夜、松本城の桜祭りである「夜桜会」が開かれる。今年は地震の影響で開催を自粛しようという動きもあったが、そのまま開催することになった。


4月14日(木)~てくてく歩いていくと・・・・。 21日(木)の期間、夕方5時半~9時まで本丸庭園内(天守閣を除く)は、無料開放され、茶席が設けられ、団子、トン汁等の販売がおこなわれる。この売り上げの一部は地震被災地への義援金として寄付される。

しかし毎年行われていた月見やぐらでの雅楽の演奏は、地震のことを配慮して中止になった。



被災地である東日本が電気不足で苦しんでいることを考慮して、外堀をライトアップする「光の回廊」(民間団体主催)も中止することが議論されたが、予定通りおこなうこととなった。


日程は夜桜会と同じで、14日(木)~21日(木)までの一週間。時間は7時~9時迄。終わる時間を1時間だけ短縮した。




てくてく歩いていくと・・・・。

ライトアップされる北外堀。



てくてく歩いていくと・・・・。 桜とともにライトもスタンバイOK!!