ここからの続きhttp://ameblo.jp/tekugata/entry-10872060431.html


てくてく歩いていくと・・・・。

東は南アルプス、西は伊那山地に挟まれた山峡地域の遠山郷と呼ばれる地域に「旧木沢小学校」はある。

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現在ある木造校舎は昭和7年(1932)に建てられたものである(上・下写真)。



てくてく歩いていくと・・・・。 木沢における小学校の歴史は明治5年(1872)までさかのぼる。今ある木造校舎の正面に位置する木沢八幡神社の社殿で修身学校が発足したのが、そのはじまりである。その時の児童数は14名。


明治に終わり頃には王子製紙によって、周辺地域の木材の大規模伐採がはじまり、それとともにこの地域の人口が増え、子どもの数も増える。それに対応するため、現校舎の位置に小学校が新築される。その時の児童数は69名にのぼる。


その後、昭和5年(1930)に木沢本村全体を焼く大火があり、その時この集落の復興にあわせて、建設され、その2年後に完成したのが、今残る木造校舎である。


戦後、林業の隆盛にあわせて人口が増え、300戸 1600の人が木沢に住むようになる。遠山村と木沢村が合併して南信濃村が発足した昭和35年(1960)の児童数は257名である。


その後、高度成長をむかえると、木沢の産業を支えていた林業が衰退しはじめ、また若者の村外への流出が進み、木沢の人口は徐々に減っていくこととなる。


そして平成3年(1991)には木沢小学校が閉校となる。その時の卒業生は8名、在校生は18名。在校生はここから5kmほど離れた和田小学校へ歩いて1時間ほどかけて通うこととなる。正式に木沢小学校が廃校となると決まったのは平成12年(2000)である。



てくてく歩いていくと・・・・。 校舎の前に立つ「閉校記念トーテムポール」


平成3年(1991)に閉校する時に、児童が制作。トーテムポールに描かれた顔は、霜月祭りの時に使用する面












てくてく歩いていくと・・・・。

校舎建造時に植樹されたようであるから、この桜の樹齢80年ほど。小学校の完成を記念してという意味と、集落の火災の後であったので、このムラの発展を祈ってという意味が、この桜には込められている。




この校舎の入り口にいくと、扉が開いており、「ご自由にお入り下さい」と掲示がされてあったので、中に入ってみた。



てくてく歩いていくと・・・・。 玄関には、スリッパが用意されていたが、その壁に「はだしで歩くと気持ちいいに!!」という掲示がされていたので、その勧めに従うことにした(左写真)。














てくてく歩いていくと・・・・。 廊下も階段も教室も全て床は木でできている。長年使用されていたことの証として、黒光している。はだしで歩くと、表面が滑らかでスベスベするものの、継ぎ目とかに微妙な凹凸を感じられ、また少しひんやりする感じも心地よいものであった。












てくてく歩いていくと・・・・。





てくてく歩いていくと・・・・。

教室は、子どもたちが使用していた当時のままであった。子どもたちが廊下からパタパタ走って、入り口の引き戸を勢いよく開け、今にも入ってきそうな雰囲気。



てくてく歩いていくと・・・・。

木でつくらた机と椅子が並べられている。ランドセルは実際にここに通っていた小学生が使っていたもの。

















てくてく歩いていくと・・・・。 教壇上にある懐かしい振り子時計。時計の針は動いている。




















てくてく歩いていくと・・・・。 薪ストーブ


















てくてく歩いていくと・・・・。
電気が必要ない足踏みオルガン。「猫踏んじゃった」とかをこれで小学生の時、友人と連弾したのを思い出す。



てくてく歩いていくと・・・・。

教室後ろの壁面には、児童が描いた絵が飾られている。地元遠山郷に伝わる「霜月祭り」を題材につくらたカルタの原画74枚で、全児童42名が4年がかりでつくり、昭和55年(1980)度時に完成したものである。



てくてく歩いていくと・・・・。


てくてく歩いていくと・・・・。

二階にある教室から外を眺めると、すぐ目の前に桜が。授業に集中できず、外ばかり見ていた昔を思い出す。
















てくてく歩いていくと・・・・。

廊下に何気なく置いてある備品が懐かしい。赤・白の直径1mくらいある紙製の玉は運動会に使われたものであろう。


てくてく歩いていくと・・・・。 説明用の大きなそろばん、地球儀、地層や火山の構造が分かる模型、電気の流れを説明するための機器、映写機など。















てくてく歩いていくと・・・・。

地元に伝わる霜月祭りを学習する教室。



てくてく歩いていくと・・・・。

別棟の体育館。長机が置いてあり、会議に使用できるようになっていた。掲示されているのは遠山郷全体の歴史や文化の説明されている手書きの地図である。



てくてく歩いていくと・・・・。


てくてく歩いていくと・・・・。 図書室。 


畳敷きの場所があり、足を伸ばして寝転びながら本を読むことができる。これは小学校があった時からあったものではない。この校舎はただ昔のままの状態を保っているだけではなく、現在ここに訪れる人が利用しやすいように工夫しながら変えているようだ。









てくてく歩いていくと・・・・。 閉校になってから寄贈された本もあるが、子どもたちが以前読んでいた本が残っている。
















てくてく歩いていくと・・・・。

黒板には木沢小学校閉校の年に書き残した児童の言葉が残っている。


閉校してから20年たっており、またこの校舎はいつでも外部の人が出入りできるようになっているのに、このチョークで書かれた文字が消されたり、この上から落書きされたりはしなかったようだ。


このような郷愁を誘うような建物には、人々の心を浄化させ、悪意を消し去るようなパワーがあるのだろうか。


今郷愁と述べたが、なぜ通ったこともない木沢小学校に、このような感情を持つことができるのか不思議だ。


ちなみに私が通ったことがあるのは、コンクリートでできた学校だけであるが、自分の母校に行けば、当然懐かしさを感じる。しかし木沢小学校に郷愁を感じるのは、このような個人的な経験とは関係なく、多くの人が共通してもつ感情ではないかと思う。


周辺の自然環境、地域の文化、小学校としての歴史、それを支えてきた人々の思いなど、実際それを知らなくても、それらを瞬間的に、直感的に感じることができる力が木沢小学校にあるとしか、私には説明できない。

氏乗の集落をあとにして、県道251号線を東に15分ほど車を走らせると、矢筈トンネルに着く。矢筈トンネルを抜けると、そこは遠山郷だ。



てくてく歩いていくと・・・・。 「矢筈トンネル」

平成6年(1994)に完成。全長4,176m。


このトンネルにより遠山郷と飯田がスムーズに結ばれるようになる。


トンネルができる以前は車のすれ違いが困難の山道を通るしかなく、路線バスの運行がなかった。



遠山郷は長野県最南端、天竜川の支流の遠山川、上村川に沿って広がる山峡に位置する。西は伊那山地、東は南アルプスがあり、山が迫ってくる感じがし、この時期はそうでもないが、太陽の高度が低い冬にこの地域に来ると、昼でも薄暗い感じがする場所である。


古くからここには秋葉街道があり、北の諏訪と南の遠州を結び、この道をとおして信州、遠州間で塩や木材の交易が盛んにおこなわれていた。この秋葉街道のルートにほぼ重なるかたちで、現在では国道152号線が整備されている。長野県と静岡県を直接つなぐ唯一の国道だ。


この152号線を南下していく。この道は秋葉街道ともいわれ、この街道沿いに集落が見られ、左右に広がる山間部にもそれが点在している。街道沿いといっても、国道とは少し離れた場所に集落があることが多いのは、かっての秋葉街道と現在の国道のルートが微妙にずれているためである。道の拡幅とかを考え、集落をある場所を避けて建設したのだろう。


車を走らしていると、おもしろいことに気付いた。国道に集落があるという訳ではないので、よほど左右に目を配りながら注意していないと、それと気付かず通り過ぎてしまいそうに思えるが、意外とその位置が分かる。それは集落がある場所には必ずといっていいほど桜があるからだ。それが目印になっている。


遠山川、上村川の岸辺には必ずといっていいほどソメイヨシノの桜並木があり、屋敷地の後背部に畑が広がっおり、そこにはソメイヨシノとは限らない恐らく山桜であると思うが、ピンクでありながらも花の色がそれぞれ木によって異なる桜が点々とあり、集落に彩りを与えている。


てくてく歩いていくと・・・・。 車を空き地において、桜がきれいに咲いている「木沢」という集落を散歩した。


木沢は街道沿いの本村を中心として、山間部の七つの集落からなるが、私が歩いたのは本村。


遠山郷の中心地である「和田」から北5kmほどのところにある。

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遠山川岸辺にソメイヨシノの桜並木があり、そのすぐ脇を国道が通っている。



てくてく歩いていくと・・・・。

集落は川の右岸側にあるが、その入り口に機関車が飾ってある広場があった(右写真)。


ここにはかっては「梨本貯木場」があり、遠山森林鉄道の停車場が置かれていた。ここから南アルプスに向けて、その軌道があり、大量の木材が、この場所に運ばれていた。


遠山森林鉄道は昭和15年(1940)に着工され、梨本貯木場は昭和17年(1942)にできている。これにより木材の大量搬出が可能になり、戦後の復興期には木材景気にわき、木沢はその拠点とな

った。

しかし木材の伐採地が奥地に進んだことや、度重なる集中豪雨の影響で軌道が損失し、昭和43年(1968)には森林鉄道の廃止が決定した。それ以降順次軌道が撤去されていく。昭和48年(1973)の中根~梨本間の軌道撤去で遠山森林列車は姿を消すこととなる。



この森林鉄道は木材を運んだだけではなく、廃線になるまで南アルプスを登山する人などにも利用されていた。



てくてく歩いていくと・・・・。

街道沿いにある木沢本村を歩く。「林屋 食堂部」と壁に書かれた家に気付く。かって木材の運送に関わった人が利用した食堂であろう。


てくてく歩いていくと・・・・。 大村 崑のホーロー看板があった(左写真)。かってここは商店であったと思われるが、今は商売をしている雰囲気はない。


“元気 ハツラツ!?”












てくてく歩いていくと・・・・。

家並西側は山に接しているが、その傾斜地を利用して茶畑がつくられ、そして畑の奥には桜が見られる(上写真)。




てくてく歩いていくと・・・・。

こちらは川や国道に接する東側(上写真)。こちらにもお茶畑や桜が。また畑の中に墓が自然のかたちである。生と死の世界が近い感じがする。このような立地の墓は他にも見られた。


遠山郷の集落では、お茶畑が多く見られるが、戦後増えたらしい。「赤石茶」という名で出荷されている。その他にはこんにゃくいもの栽培が盛んである。また昭和40年頃までは養蚕も盛んであったため桑畑も多かったようだ。


山が左右にある谷間を中心に集落があり、その周りには農地にする場所も限られている。また日照時間が短く農業には適さない土地だ。大正以前には山の上で焼畑が行われていたのは、そのためだ。今でも稲作をする土地はごくわずかである。


伝統的には、この土地に住む多くの人達は、農業を主としておこなっているわけではなく、林業にたずさわったり、また切り出した木材やさまざま物資を馬や舟を使い運ぶことを生業にし、現金収入をもとに生活をしていた。


てくてく歩いていくと・・・・。

木沢本村には「木沢八幡神社」がある(左写真)。


遠山郷といえば、毎年12月におこなわれる「霜月祭り」が有名である。現在、遠山郷の各集落にある12の神社でおこなわれている。木沢八幡神社もその中の一つだ。


宮崎 駿がアニメ映画「千と千尋」を制作するとき、着想を得た祭りとして多くの人の知られているが、中世からの芸能文化を今に伝える非常に価値があるものとして、国の無形文化財に指定されている。


日本各地からさまざまな神様をお湯を沸かすことで招き、地元の神々が舞い踊り、人々と交流するといった祭りである。日照時間が短くなるこの季節に、生命力を回復させようという人々の願いがこめられている。


木沢八幡神社では、本祭は毎年12月の第2土曜日16時から、翌日の未明までおこなわれる。この祭りのクライマックスである神々の舞が始まるのは夜中の2時をすぎてから。祭りすべてを見ようと思ったら大変気合がいる。今度レポートできればと思うが・・・・・。


霜月祭りはどの神社も2日がかりで翌日の未明まで、かっては祭りをおこなっていたが、近年は参加する住民が少なくなったことから、時間を短縮して夜中の12時には祭りを終えるといったところが多くなり、また祭り自体存続できなくなった集落もあらわれている。近年3社、祭りがおこなわれなくなっている。


木沢八幡にしても、元々12月10日から祭りをおこなっていたが、外部からの人に参加してもらったり、見学しやすくするためにという意味もあって平成20年(2008)より土曜日にからめての日程に変わっている。

てくてく歩いていくと・・・・。

木沢八幡神社は入り口の鍵があけられており、その中をいつでも見学できるようなっている。中に入ると、その中心に粘土が固めてできたカマドが置かれている。三つの口があいており、祭りの時、ここで鉄鍋が置かれお湯を沸かし、祈祷の儀式をして神々を招く。そして神々はこのカマドの周りを舞い踊る。カマドの口が三つあるのは、ここだけ。通常は一つか二つ。


このカマドのたたずまいは、祭りの時の熱気がウソのようだ。静かにその時を待っているといった感じを受ける。


てくてく歩いていくと・・・・。 木沢八幡の前には、「鎌倉商店」という雑貨屋さんがある。


文房具、お菓子や弁当、野菜・魚・タバコそして衣料品まで取り扱っている。雑貨屋さんというより小さいスーパーだ。


近くにコンビ二やスーパーといったものがないので、この集落の貴重なインフラとして機能している。



てくてく歩いていくと・・・・。 鎌倉商店のタバコ売り場では、猫がおくつろぎ中。この店の主人が猫のようだ。


カメラを向けると首を立てて私の警戒して、居心地が悪そうにそそくさとこの場所を去った。


お店の奥さんに聞くと、店の入り口にダンボールでつくったベットを用意はしているが、この雑貨屋さんが飼っているのではなく、誰とはなく、この近所周辺でかわいがっている猫であるらしい。





てくてく歩いていくと・・・・。 鎌倉商店の奥さんに、この地域の様子についてたずねたら、年々若い人がいなくなることを寂しがっていた。


「年々、お年寄り多くなる一方なんですよ。私が子どもの頃のような木材業が盛んな時代は子どもがたくさんいましたけど、今は若い人が働くような職場がありませんから、しょうがないですけど。子どもが成人した私のような者でも、この辺では若い方になります。えっ年齢ですか? それは秘密ですよ(笑)


遠山には高校がありませんので、子どもがその年齢になると、飯田といったところに下宿して、そこから学校に通わせました。高校を卒業してからも、特に家業がない人は、そのまま外に出ていったままで、こちらに帰ってくるということはまずありません」


平成9年(1994)に矢筈トンネルができる前は、ここから15km南に山道をいったところにある飯田線平岡駅に、バスで30分かけて行き、そこから電車に乗り、1時間ほどで飯田に着く。矢筈トンネルができてから飯田行きの路線バスができ、1時間で飯田に行けるようになった。しかし日に3往復と本数が少なく、不便なのは変わりなく、高校に行くのにここから飯田へ通うという人はいないようだ。


また木沢が所属していた南信濃村は平成17年(2005)に飯田市と合併している。そのことも住民の高齢化を進める要因の一つになったようだ。


「最近、村が合併してから、役場に勤めていた若い公務員の家族が、子どもをつれて飯田に引越してしまいましたから、寂しいことです」


住民の高齢化が進みことで、遠山郷の誇りといってよい霜月祭りの存続が難しくなっている。前述したが実際、いくつかのものは近年おこなわれなくなっている。木沢の霜月祭りは面(オモテ、 神を演じるためのお面)も32と多く、太鼓や笛を吹く人などが必要で、この祭りをおこなうためには50人ぐらいの人数がいる。またそれは男性でなければならず、当然さまざまな儀式の所作を憶えていなければならない。また祭り当日、女性たちも食事やお茶の準備などを朝から共同でおこなう。


「50人って都会では簡単に集まるかもしれませんが、このムラだけだとなかなか近年難しくなっています。だから外部の人にも参加してもらうようにしています。しかし結構、祭りの日が近づくと、何日間か踊りや祝詞といったことを練習をするのですが、飯田から車で1時間かけて、ここ出身の者が数多く集まってくるし、当日東京や名古屋といったところから駆けつける人もいるんですよ」


祭りのために、木沢出身者が集まるのは、この土地が好きで、愛着があるからであろう。この愛着を象徴するような建物が、この集落にはある。鎌倉商店・木沢八幡神社の北側、通りを挟んだところに位置する。


それは「旧木沢小学校」である。今その校庭に桜が満開に咲いている。

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松本駅から東に2kmの場所に、「カタクラモール」というイオン東松本店を中心店舗として50店舗ほどの小売店が集まるショッピングセンターがある(周辺地図http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E137.58.54.3N36.13.49.0&ZM=11 )。



てくてく歩いていくと・・・・。 衣料品・食品・飲食店・雑貨屋・カメラ店・書店等があり、ここに行けば日々の生活に必要なものは手に入るといった場所で、また着物の着付け・お茶などのカルチャー教室も開かれている。昭和56年(1981)にこのショッピングセンターはできているが、いまや周辺地域の住民にとってはなくてはならない存在であるといってよいだろう。



■カフラス(旧片倉製糸紡績 松本製糸工場)

店舗建物の西側には、利用者のための駐車場がある。この駐車場と店舗建物に挟まれるようなかたちで見るからに歴史を刻んだ建造物がある。赤とクリーム色のイオンカラーで装飾された日本中どこにもあるようなデザインの店舗建物とは調和感がまるでなく、なぜここにこんなものがと思わせるような建物である。


現在下着の製造・販売等の繊維事業を手がける「カフラス」という会社がこの建物を利用している。


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カタクラモールに隣接するカフラス。正門南側、日ノ出町通りから



てくてく歩いていくと・・・・。

同じく建物正門がある南側から



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ショッピングセンター駐車場がある西側から。上写真建物の側面・裏面



てくてく歩いていくと・・・・。

正門右手にある建物。店舗建物に隣接する



この建物は昭和4年(1929)に松本製糸工場を大改築をした時にできたものである。鉄筋コンクリート2階建て、外壁は、赤褐色のレンガで成形されたタイルで飾られている。レンガ表面には引っ掻き文様が刻まれ、この形式のものはスクラッチタイルと呼ばれている。


てくてく歩いていくと・・・・。

「スクラッチタイル」










大正12年(1923)に竣工されたF・L・ライトが設計した帝国ホテルにスクラッチタイルが使用されてから、その後官公庁や学校、工場など鉄筋コンクリートの建物が増える中、このタイルで外壁を飾る建物が増え、昭和3年から6年にかけて、その建築スタイルはピークを迎えることとなる。


この建築スタイルは、レンガ積みから鉄筋コンクリートへと建築工法が変わる過渡期であったことを示している。


明治時代になか西洋風建築が増えていく中、耐火性がある建物として赤レンガ建築が推奨され、東京府は明治5年(1872)に銀座での大火後、その場所を赤レンガ街にしていった。しかし関東大震災後、レンガ積みだけに地震によりくずれる被害が多くあり、その後鉄筋コンクリートを使用する建物が増えていく。その中でレンガ積みのイメージを鉄筋コンクリートの建物に残そうとして、レンガ製の化粧タイルが生まれ、スクラッチ文様のものが流行することとなる。


現カウラスの建物ができた昭和4年は、スクラッチタイルが流行した時期であり、その工法でつくられたこの建物は昭和初期という時代を象徴する建物だといえる。


またこの建物に歴史的な文脈を読みとると、松本市の近代を象徴する重要な建造物であることが分かってくる。


■片倉松本製糸工場の発展と松本近代化の進展

現カフラスの建物はもともと松本製糸工場が使用していたものであるが、これを経営していたのは大正9年(1920)創業の「片倉製糸紡績株式会社」である。前身は明治28年(1895)創業の「片倉組」で、片倉製糸紡績を経て、昭和18年(1933)には「片倉工業株式会社」と改称している。


この会社の歴史を紐解くと、明治6年(1873)で岡谷で片倉市助が自宅で座繰り製糸をはじめ、長男の片倉兼太郎が水力を使用した様式器械工場をつくるなどして事業を拡大。松本に進出したのは明治23年(1890)で

ある。松本の清水に3000坪の敷地、48釜の工場で創業した。この松本製糸所の所長になったのが兼太郎の実弟の今井五介である。


今井五介はその後、水力から電力へ動力を変え、工場の拡大つとめ大正9年(1920)には3万坪の敷地に1092釜、従業員1万5000人の日本一の製糸工場を松本で築き上げていった。


今井五介は本業の生糸製造に力を入れたのではなく、松本の近代化に多大なる貢献をしている。そのいくつかを述べる。


・信濃鉄道の敷設(現JR大糸線) 

・電力の供給(松本電灯と越後電気を合併して中央電気株式会社設立)

・教育の普及(松本商業学校設立、市立図書館設立の協力)等


松本商業会議所(現松本商工会議所)が明治41年(1908)に設立するが、今井五介は初代会頭となり、昭和16年(1941)まで34年間その地位におり、松本の商工業及び日本最大の生糸メーカー片倉財閥の重鎮として日本の経済界にも多大な影響を与える一人になった。


その証拠とは一概に言えないかもしれないが、彼が会頭につとめる間に、県都の長野市をおさえて、日本銀行松本支店や旧制松本高等学校といった国家機関の誘致に成功している。


これらの今井五介の本業以外の実績は、商工業を支えるインフラ、教育、金融といったものだ。いずれも片倉といった私企業の利益をこえた松本全体の公益にかなうもので、松本の近代化を考える上で今井五介の存在は大きい。



今井五介が大きな役割をはたした松本の近代化は、彼が経営し発展させていく松本製糸工場周囲における景観の変化に端的にあらわれている。

 

・シルクの城下町の形成

松本製糸工場を中心として大正以降、生糸関係の施設ができてくる。「長野県蚕業取締所」「農商務省蚕業試験場松本支場」など。また大正3年(1914)には今井五介が中心になり「合資会社大日本一代交配蚕種普及団」を設立。翌年には合資会社から片倉の経営する「一代交配蚕種普及団」になり、その研究所や製造所等の施設が建てられた。ここで研究・製造された良質な蚕(一代交配という革新的な技術によって産み出される)が、その後10年間で日本中に90%以上という驚異的な普及を果たすこととなる。


・道路の整備

明治初期の地図と大正期の地図を比較すると、よく分かるのが道路の整備が進んだということだ。現カタクラモールの南にある「日ノ出町」はこの地に松本製糸工場ができてからのものであり、この通りができることで「中町」といった旧城下町とこの地がまっすぐつながるようになった。また松本製糸工場東側の道路整備もなされ、そこに「蚕玉町」「金山町」「四ッ谷」などと称されるようになった。さらに明治35年(1902)松本駅ができてから、そこから東にのびる道である「国分町」「鍋屋町」「弥生町」の拡幅等の整備が進んだ。ちなみに国分町・弥生町という呼び方はそれ以降のものだ。これらの通りの整備の目的は、人や物資の移動をしやすくする点にあるが、それと同時に松本製糸工場やこの関連施設に働く人が増え、その周辺に住む人が増加し、新たにマチが形成されたことに対応するという意味もあった。



・路面電車の敷設

通りの整備と関係があるが、松本駅前の国分町から東にすすみ、弥生町で北に曲がり蚕玉町・金山町・清水を通り、松本製糸工場、歩兵50連隊、終点の浅間温泉まで結ぶ路面電車が大正13年(1924)にできている。


・学校

また学校も松本製糸工場の周りに増えてくる。松本商業学校が上土から埋橋に移転したのが大正2年(1913)、松本高等学校が大正8年(1919)、松本第二中学校(現県ヶ丘高校)が大正12年(1923)に創立している。


このように松本製糸工場周辺の景観は変わっていく。松本を産業明治後半期からリードしていったのは今井五介が経営する松本製糸工場であることを考えれば、製糸工場があった地域を中心に松本の近代化があり、この景観の変化は近代化が進展したあかしだと捉えることができる。


昭和4年(1929)にできた現カウラスの建物は、現在残る数少ない松本製糸工場の遺産である。今井五介そしてこの製糸工場が松本において果たした役割を考えれば、カフラスが現在使用している建物は松本の近代を象徴するもので、歴史的にも文化的にも重要であるといえるだろう。




■生物化学研究所(旧片倉製糸紡績 蚕業試験場)

カフラスから約50m南、1ブロック離れた場所にも、松本製糸工場と関わり深い遺産がある。製糸工場と同じく片倉製糸紡績が運営していた施設である。



てくてく歩いていくと・・・・。

本館をやまびこ通りより、北側から。木造2階建て。壁面を赤色で塗装し華やか。



てくてく歩いていくと・・・・。

同じく本館をやまびこ通りより、南側から。スクラッチタイル張りのモダンな玄関が見える。




てくてく歩いていくと・・・・。

やまびこ通り沿いにある正門より、まっすぐ西側。 本館から南北にのびる100mくらいの長さの渡り廊下があり、それを挟むかたちで10棟ほどの木造建物が並ぶ




てくてく歩いていくと・・・・。

やまびこ通りより、一番南側にある棟


現在生物化学研究所と呼ばれる建物は、昭和11年(1936)にできたものだ。片倉紡績が経営する「蚕業試験場」が利用していた。


蚕業試験場の前進は、一代蚕種普及団の試験研究部である。大正3年(1914)に松本市筑摩にできたもので、昭和5年(1930)に試験機関を拡充する目的で、試験研究部を独立・改称し、蚕業試験場が誕生する。そして昭和11年に移転することとなる。


この試験所で研究された良質な蚕は、隣接する普及団などが運営する製造所で増やされ、各地にある共同飼育所に分配された。そこから各農家に蚕が届けられた。


戦後蚕糸業が衰退していく中、その時代背景にあわせ蚕以外の生物の研究を幅広く研究するようになり、昭和60年(1985)に「生物化学研究所」と改称する。


埼玉県狭山にある研究所とともに、蚕研究の蓄積をいかし、最新のバイオ研究をおこなっている。松本の研究所では花粉交配用ミツバチや釣り餌や殺菌剤等の開発をしている。特にここで研究され、飼育された花粉交配用のミツバチのシェアは全国トップシェアである。


なお主に蚕の蛋白質を使った試験薬の開発をおこなっていた埼玉県狭山にある研究所は今年4月に医療機器メーカーの「シスメックス」に買収されている。




松本に残る現生物化学研究所の建物は先に述べたカフラスとともに、今井五介が率いた片倉製糸紡績の痕跡を今に伝えるもので、松本の近代を象徴するものである。


戦前のことを知っている人の話しを聞くと、戦争中徴用で、松本製糸工場でパラシュートを縫ったとか、梱包したとか、また桑や繭を工場や研究所に運んだとかいう人が松本では数多い。


松本市街地在住の昭和5年生まれの方はこのようなことを私に話してくれた。


「戦争中、松本商業が一時的に明道工業と名乗っていた時代があったのですが、毎日がほとんど徴用で、勉強したような記憶がほとんどありません。徴用で片倉製糸にいったこともあります。荷物運びを手伝った記憶がありますが、その時女工さんから蚕のさなぎをもらった記憶があります。繭を熱した時に中にいたものですが、もらったものをそのまま食べたのを憶えています。そんなにうまかったという記憶はありませんが、当時はひもじかったですから、皆と一緒に喜んで食べました」


戦時中、片倉製糸紡績は原料を優先的に配給される軍需工場として役割をおうこととなり、製糸以外の機械工作といったこともし、昭和18年(1933)片倉工業と改称する。


片倉にこのような時代があったことを考えると、今に残るカフラスや生物化学研究所の建物は、近代といったものだけではなく、戦争の時代も象徴する建物という見方もできる。


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「信濃毎日新聞」 朝刊 3月4日付けによれば、カフラスそして生物化学研究所の建物の取り壊しが、片倉工業から発表されている。