てくがたのブログ-ソースかつカレー

てくがたのブログ-ソースかつカレー 松本駅前にあるCOCO壱番屋に、昼食を食べに行ったら、ご当地カレーとして「ソースかつ☆カレー」なるものがメニューに載っていた。


駒ヶ根のソースかつ丼は知っているが、そんなご当地カレーが、長野県にあったかなぁと思いつつ、野菜をトッピングしたものを注文した。


駒ヶ根のソースかつ丼は、ごはんの上に千切りされた生キャベツと、甘辛いソースがかかったトンカツがのせてあるもので、駒ヶ根市を中心に長野県伊那地域の食堂で多く見られる。


それに、COCO壱のカレーをかけたものが、このソースかつ☆カレーである。


しかし伊那地域でこんなご当地カレーがあることは知らない。要するにこれは、COCO壱が新たに提案したご当地カレーということだ。


でも不思議だ。ソースかつ丼を置いてあるところは大抵、カレーもメニューにあるので、当然ソースかつ丼にカレーがかかったものがあってもいいはずなのに。ひょっとしたら私が知らないだけかもしれないが。


ところで、長野県でご当地カレーなるものがあるのだろうかと気になり、少し調べてみた。


1、長野市 カレーショップ山小屋 「納豆カレー」

2、飯田市 麓のカレー大原屋「味噌入りカレー」

3、大町市 くろよんロイヤルホテル他「黒部ダムカレー」


といったところが有名らしい。


しかしご当地というならば、次の2つの点はクリアしてほしいところだ。


一つは、地域的な限定性があり、そこで複数の店舗が扱っているもの。もう一つはその地域の共通の素材、つくり方があること。この2つがあってはじめて、その地域の風土に根ざした文化といえるからだ。ご当地という言葉にはそういう意味あいが含まれていると考える。


お客の立場でいうと、上の2点があればこそ、それを食べることを目的で、わざわざその土地を訪ねてみようと思うし、またはしごして食べ歩くという楽しみ方もできる。ご当地という言葉に観光客が弱いのは、そのためだ。


そう考えると、上の1.2の店は個人プレーで、地域的な展開がなく、あくまでも地域の名店にすぎない。3は、近年マチおこしのために大町市のレストランや食堂がはじめたもので、とにかくご飯などを使ってダムの形を作ればいいというカレーだ。地域的な限定性をもって複数の店舗で扱っているが、その地域にある共通の素材を使っているわけではない。


そうすると、長野県では、まだご当地カレーがないということになる。今後に期待!!













てくがたのブログ-りんご
てくがたのブログ-りんご この花、なんでしょう?


ヒント1 果物の花です。

ヒント2 長野県を代表する果物です。

ヒント3 この果物を使ったダイエットがあったなぁ











答えはりんご。自宅の裏にりんご畑があり、きれいに咲いていたので思わず撮影した。


私が住んでいる長野県はこの果物の産地で、国産りんごの約2割が長野県産である。長野県は北から南まで直線で300kmと広いが、いたる所でつくられている感じだ。出荷量1位はもちろん青森県。国産りんごの5割を占めている。私の小さい頃の、ウン十年前に社会科の授業で習った状況とほとんど変わらないことをネットで確認。


りんごといえば、同じ長野県の飯田に行きたくなってきた。飯田市の中心街には「りんご並木」と呼ばれている通りを中心に、この季節りんごの白い花で彩られるからだ。戦後すぐの昭和22年ここで大火があり、その復興の際に地元中学生の発案でりんごの木が植えられたのがはじまりだ。その後市民運動となり、現在に至っている。http://www.city.iida.lg.jp/namiki/home.html


でも飯田は遠い。私が住んでいる松本から約100km南にいった場所にあり、高速で1時間と少し。同じ県とは思えない距離だ。


てくがたのブログ-雑草

自宅裏のりんご畑の横は空き地になっており、雑草がいきおいよく茂っていた。よく見ると、一つ一つ草花の種類が違う。雑草とまとめていってしまったらかわいそうに思えてきた。


しかし、残念ながら、この草花の名前をほとんど私は知らない。


てくがたのブログ これはいわずと知れたたんぽぽ。


このぐらいは私でも分かる。     














てくがたのブログ-花 ではこれは?

















てくがたのブログ-花 これは?










よく見かけるものではあるが、名前がでてこない。小さい頃、よく学研あたりの植物図鑑で草花の名前や生態を調べていたことを思い出した。いつから図鑑というものを開かなくなったのだろう?今度実家に帰ったら、図鑑を探してみよう。でもたくさんあったマンガ本と一緒に親が捨てているかも。










前回の続き

てくがたのブログ-松本市里山辺 須々岐水神社


てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」 松本市街地東、美ヶ原へ行く山のふもとにある里山辺でおこなわれた「お船祭り」を見に、前日の宵祭りに続いて5月5日にたずねる。


昼2時頃、祭りの中心である「須々岐水(すすきがわ)神社」にいくと、前日とは違い、綿菓子・金魚すくい等の屋台も営業し、境内には人があふれていた。


社殿の中では、里山辺の各集落の代表者がそろっており、神主が神事を進めていた。


巫女役を小学生から中学生くらいの女の子が勤めており、少し緊張気味の表情がかわいらしい。

この日は、朝、里山辺各集落(薄町、湯の原、新井、下金井、荒町、西新町、金井、藤井、兎川寺)から、「船」と呼ばれる山車を曳航して、須々岐水神社側の教育文化センター前に集合する。それから一列に艦隊?を組んで、蛇行しながら神社へ向かう。午前11時頃、鳥居の前で船一つずつお祓いを神主から受けて、神社境内の中に入る。そして船の周りで各集落の人達が集まり、直会(飲食)をし、1時頃から神社の中で神事がはじまる。私がたずねたのはちょうどその頃だ。


てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」 神事の最中、境内に鎮座している船を見る。この写真のものは「湯の原」の船である。安政5年(1858年)にできたものであるらしい。


船は木製2階建て構造で、一対の車輪に支えられ、両脇の前後に通してある2本のかじ棒をつかって動きを操作できるようになっている。大きさは船によって多少違うが高さ5m、長さ4.5m、幅3mといったところだ。


2階部分は壁はなく、柱だけで屋根を支えており、舞台になっている。船が動き出すと、そこには大太鼓を叩く者や笛を吹く者と一緒に、3人程度の若い衆(わかいしょう)が登り、船の進行の指示を出す。1階部分は、側面に壁や窓があり、その上部には庇がつけられている。この中には子ども達が入り、小太鼓・鉦・鈴などでお囃子をする。


この山車を大きく特徴づけるのは、船に似せるため、前後に飛び出すようにはられた幕である。この幕の色は、船によって違い、遠くからでも、どの集落のものかが分かる。


これらの制作年代はほとんどが江戸時代後期であり、現存する最古のものは、天保6年(1835年)の上金井の船である。しかし資料によると、この祭りに船を出した最も古い記録は、明和4年(1767年)にある。薄町のもので、もともとこの集落のものしか船はなかったということを記している。ちなみに薄町の現存する船は幕末期につくられたようだ。


船の意匠はぞれぞれ違い、屋根や舞台などの彫り物や飾り金具、また軸部の漆塗りなど神社の社殿を思わせる贅をつくしたつくりとなっている。


この中で特に目を見張るのは1階部分の壁面に施された木彫りである。


てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」 説話的な木彫りがされており、これは湯の原の船に施されたもので、「唐婦人の授乳」(左写真)。唐婦人が体が弱った姑に自分の乳を与えて孝行しているところ。その他にも仙人や、毘沙門天と弁財天等たくさんの木彫りが施されている。


薄町の船には、ヤマトタケルの木彫りがされてあった(下写真)。

雲に乗り、龍に挑みかかっている。顔の表情や衣装、そして波打つような雲など細かいと同時に力強く表現されており、これを制作した大工の高い技術を感じることができる。


てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」

神事のクライマックスは、社殿の前で各船がお払いを受け、各集落に帰っていくところである。「馬」と呼ばれる神輿を先頭に、鎮座する境内のすみから船が1台ずつ社殿の前まで曳航される。ここが見せ場とばかりに若い衆に操られた船は蛇行したり、時に上下左右に揺らせれる。境内にいる観客はその動きに合わせて、船をよけなければならない。狭い境内の中でたくさんの人がいる状態なので、警備の警察官が注意をうながしているが、気をつけないと船に曳かれてしまう。

てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」 馬に導きられ、社殿の前に現れる薄町の船(左写真)。

神社境内に一番最初に入り鳥居の前でお祓いを受けたのも、一番最初に境内から去るのも薄町の船だ。この集落がお祭りの中心であり、里山辺の中心であることが分かる。



てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」 先頭にたつ若者の指示で、蛇行させながら進行方向を決めていく湯の原の船(右写真)。

船の上にいる人も大きな声を出して進行を指示し、その下では15人ほどでかじ棒を操り、船を動かしている。中腰の姿勢がつらそう。










てくがたのブログ-松本市里山辺「お船祭り」 境内から出て帰り道、激しく船を上下に揺らす湯の原の船(写真右)。

100年をこえる歴史ある山車で、県宝に指定されているというのに、そんなことは気にせず、蛇行したり、激しく上下左右に揺らす。船の進行を海の上と見立てているので、このような動きをすのだろう。他にも、地を固めて、この世を安定させるとかといった意味もあるのかもしれない。船を曳航している若い衆は、そんなことは考えずに、目立つためにやっているだけかもしれないが。


水を張った田んぼに移る新井の船(下写真)。

このような情景を見ると、本当の船のような気になってくる。今この地域は住宅地化が進んでいるが、かってはここ一面田んぼだったことを考えると、大海原を船が渡っているように見えただろう。

てくがたのブログ


帰り道、行きと同じように船自体は若い衆が中心に操り、その前後をお年寄りやお母さんや子どもが囲んでいる。そしてその状態で各集落に戻り、船の倉庫である「船倉」の前で解散する。しかし若い衆は皆で船を解体して、船蔵に船を閉まって解散となる。しかしその日の夜、はっぴを着たままの姿の者が多く松本市街で見かけた。そのまま皆で飲み会といったところだろう。


てくがたのブログ 船倉に船をしまう兎川寺の若い衆(左写真)









祭りは「ハレ」の行事なので、基本的にはお金をかけ贅沢なものである。このお船祭りも同様だ。先に述べた通り、江戸後期に現存するほとんどの船がつくられている。当時の記録によれば、安政年間に完成した湯ノ原の船は、2年がかりの制作で、700両というお金がかかっている。1両を今の価値で5万円として計算すると、350万円の出費だ。さらにこの船を収める船倉を制作するとさらに出費はかさむ。そのお金を村人全員で負担して10年かかって支払いを終えている。


1年に一度しか使わない船に対して、当時の人々はなぜこのような出費をしたのだろうか。しかも江戸時代後期、天候が不順で飢饉が多発した時代である。


これを考える上で重要なのは、江戸時代後期の時代背景である。この時代になると流通の活発化とともに、貨幣経済が浸透して、このような農村部でも大きな影響を受けている。商品作物をつくったり、出稼ぎに行ったりして、ムラでも貨幣また資本の蓄積ができるようになったからだ。このことが船を購入するための資金力となる。もともと薄町しか船を保持していなかったのに、この時代その他の集落も船を持つようになるのは、そのためだ。


また貨幣経済が浸透するようになるということは貧富の差を広げるということでもある。それが一揆や打ちこわしといった過激な行動の原因となる。よくマチの商人とムラの農民との対立でこのことを理解されるが、マチの中でも、ムラの中でも貧富の格差がでたと考えるべきだろう


貧富の差がでることによって、対立が増し、人間関係が悪化してくる。そういう時だからこそ、祭りを盛り上げて、ムラの紐帯をもう一度回復しようと考え、富裕な地主層が中心に新しい船を建造しようとする機運がでたのだろう。


どんな祭りでも長い間存続しているものは、その形をかえながら時代に適合させている。いつからこの祭りがはじまったか分からないが、いままで存続しえたのは、それができたからだ。江戸時代後期において、各集落が船を持つようになったのは、まさに時代への適合である。


現在里山辺という土地は、少子化による人口減をはじめ、今にはじまったわけではないが農業地域から市街地住民のベットタウン化という問題を抱えている。今後この船祭りはどのようにして、時代というものに適合していくのであろうか。