てくがたのブログ 九州地方から関東甲信地域までいっきに梅雨明け宣言がでた7月17日の土曜日(その発表がでたのは翌日)、からっと晴れ上がり、気温は30度をこし、とにかく暑い。


そんな日、そろそろ見ごろが終わってしまうと思い、“あじさい寺”という愛称がある「弘長寺(こうちょうじ)」に出かけた(左写真)。愛称から分かるようにアジサイが1000本以上あり、この時期それを見物しに多数の人が来る名所だ。


場所は長野自動車道塩尻北ICを降りて、車で5分といったところだ。松本市寿小赤の赤木山のふもとにある。


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お寺入り口にある石碑(左写真)









ちなみに松本では、あじさい寺と呼ばれているところがもう一つある。松本市内田の「法船寺(ほうせんじ)」だ。


この弘長寺から近く、2kmの距離にある。この二つのお寺をはしごして見比べるのもおもしろい。


人によって評価は違うが、華やかさの弘長寺、ボリューム感の法船寺といった印象を私個人はもっている。というのも弘長寺のあじさいは、一つの種類のものがたくさんあるわけではなく、視覚的な圧倒感が明らかに法船寺に劣る。しかし色や形が違うアジサイが多数そろい、見飽きない楽しさがある。60種類以上の品種のものがあり、新種のものも見られる。


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てくがたのブログ お寺の歴史を簡単に述べると、鎌倉幕府の執権北条時頼が、この地に派遣されたまま病没した息子(六男)の六郎政頼を弔うために、弘長元年(1261)に創建した。二度の火災があり、そのおり再建するものの場所は、近辺ながら移動している。現在の位置になったのは江戸時代の寛永3年(1626)である。現本堂は平成2年(1989年)に改修したまだ新しいものだ(上・左写真)。






てくがたのブログ 本堂の左横の石段(右写真)を通り、そしてその裏手に回ると、お堂やお墓があり、その周りにアジサイがところ狭しと植えられている。













てくがたのブログ 看板の指示に従って先に進む。そこに書いてある通りさまざまな朝顔が・・・・








通路脇のアジサイ。身長をこえるくらいの高さに成長している。

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アジサイの品種名は、その根本にある小さな掲示板で記されている。これは“アナベル”

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次の花は、分からず。掲示版をしっかりとチェックしなかったので、以下で紹介するものは品種は紹介できず(ゴメンナサイ)。これは普通のアジサイに見えるけど・・・。違うのかな。
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さて? “白ガクアジサイ”だっけ?
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視点を変えて、アップで撮影。
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もう一つアップ。
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花の裏からの撮影。光が透けてキレイ。
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同じく裏から。広角で。
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アジサイには、水がよく似合う。
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お寺らしく石塔、石仏と一緒に。
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本堂の右手にある「弁天堂」。そのお堀にスイレンが浮いている。しかし残念ながらその花は咲いていなかった。
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弁天堂の横に「慈母観音」。マリア様っていう感じ。
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てくがたのブログ 昼2時から、4時頃まであきずに撮影した。そして帰る際、本堂の横で、セルフサービスで「あじさいおみくじ」なるものが販売されているのを発見。






てくがたのブログ おみくじの箱の中には4種類のものがあった。


いずれもビニール袋の中におみくじ結果が書いてある紙が同封されているのは同じであるが、その中に紙粘土で細工されてものが入っており、この種類が違う。


花形のものを購入。それでは結果は・・・・・・・・・



末吉。微妙のラインである。恋愛のところで、断定的に“あきらめなさい”って書かれているのが笑える。てくがたのブログ

ところで、どうしてアジサイをこの寺で植えるようになったのだろう?


最初、このお寺の紋を、山門の扉で見た時(下写真)、アジサイに似ていたので、それにちなんで昔からアジサイを植えていたのだと思ったが、どうやら違うらしい。てくがたのブログ
檀家のご夫婦が昭和55年(1980)に植えたのが最初で、協力者を得ながら弁天堂を中心に「あじさい庭園」を5年の間で造成し、それ以降もアジサイを境内全体に増やしていったという話だ。


この檀家夫婦が、どのような思いでアジサイを植えていったのだろうか?この世にはいない誰かを思ってのことか。


このようなことは、お寺のパンフレットにも記載されておらず分からなかったが、分かればまた違った目でアジサイを見ることができたかもしれない。



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夕方5時頃、ドン、ドン、ドン、ドンという和太鼓の音が響きわたり、ザワザワとする人の声がどこからか聞こえてきた。



自宅の窓からのぞいてみると、松本深志高校の校庭から高く舞い上がっている煙と炎が見え、たくさんの人がその周りを走り回っている(右写真)。



それから1時間たっても、太鼓の音や人の声が聞こえ、まだ走りまわるのを止めない。



自宅から10分のところにこの高校はあるが、コンビ二に夕食を仕入れに行くついでに、その様子をやじうま気分で見にいった。

てくがたのブログ 高校のそばにいくにつれて、太鼓の音がしだいに大きくなり、はっきりと、そこから響くわたる奇声ともいっていい声が聞こえるようになった。


そこでは、何を言っているか分からないがキャーとかワーとか聞き取れない声をあげながら学生がTシャツ・短パンといった格好で、炎を囲むようにして、ぐるぐると反時計周りに学生が炎の周りを走り回っていた。さすがに走り疲れて歩いたり、立ち止まってる人も多く見かけるが(左写真)。


誰か一人の学生がホースからでる水を走っている人めがけてかけている。そしてそこからでる大量の水でグラウンドが泥状になっている。その上を走るので、学生皆、男も女も泥だらけだ。


何人走っているのだろうか?ざっと300人程度というところか。その中でも“深志応援団”という字が記された幟旗を持って走っている学生がひときわ目立つ。恐らく応援団に所属している学生だろう。私の立ち位置からは確認できなかったが、和太鼓を叩いているのは応援団であろう。そうすると、この場は彼らの晴れ舞台ということとなる(下写真)。

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私と同じように、この様子を眺めていた日傘をさしたご婦人に話しかけてみた。それで分かったのだが、この日、7月19日は深志高校がおこなう学園祭の最終日にあたる。最終日といっても一般公開日ではなく、その日は学園祭の後片付けの日で、学生達は校内に組み立てた屋台や舞台のしかけを解体して、清掃したりするらしい。校庭の真ん中の炎は、その際に生じたさまざまなゴミを燃やしてできたファイヤーストームだ。この炎の周りを泥だらけになって走るのは、学園祭のフィナーレで毎年おこなっていることであるらしい。私が話しかけたご婦人によると、反時計周りに走るのも毎年のことであるらしい。

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コンビ二で張ってあった深志高校の学園祭ポスター(左写真)











松本深志高校の学園祭は、今年で63回目で、「とんぼ祭」という名がついている。


“とんぼ”という名前がついているのは、それが松本深志高校のシンボルマークで、校章に使われているからである。

(以下の内容の詳細はhttp://www.nagano-c.ed.jp/fukasi/

それではなぜ校章に? 日本最古の歴史書『古事記』に由来することであるようだ。


その書によると、イザナギ、イザナミにより八つの国が生み出され、日本が形づくられる。その一つが「豊秋津島(とよあきつしま)」で、今の本州地域にあたる。秋津とはとんぼという意味であり、これを分かりやすく訳せば「豊かに穀物が実ってとんぼが飛び交う島」ということになる。


初代校長の小林有也は、学生に日本人らしさを求め、秋津=とんぼを学校の校章に定めたと考えられている。


小林校長は、雑誌「日本人」を刊行して、明治における行き過ぎた西洋化政策や社会風潮に反対して、国粋主義を唱えていく志賀重昂(しがしげたか 教師として長野県に赴任したことがある)等のメンバーと交流あったことが知られている。このことが彼の教育思想に多大な影響を与え、とんぼを校章にしようという発想になったと推測されている。


校章は明治26年(1893)にはできており、後に大正11年(1922)にできる校歌では、とんぼのことが高らかにうたわれている。


蒼溟(そうめい)遠き波の涯(はて)
黒潮たぎる絶東(ぜっとう)に たてり大和の秋津洲(あきつしま)
光栄(はえ)の歴史は三千年
そのうるはしき名を負へる
秋津男児(あきつをのこ)に栄えあれ


国粋主義といっても、今の右翼をイメージしてはいけない。明治の国粋主義は国家主義・全体主義とはイコールではなく、西欧文明にいたずらに追従するのではなく、自らの文明の価値を見つめなおすというものであり、個人の価値観を否定するようなものではない。この学校には学生自治の伝統があるが、そもそもこれは初代校長の小林が学生とともにつくりあげたものである(自治による寮、自治による会合等)。


この学生自治の精神は校歌の2番にうたわれている。


時の流れは強うして

この世の旅は長けれど 自治の生命(いのち)の若人は

強き「力」に生きるかな
山河秀(
ひい)でし この郷(さと)に

礎(いしづえ)固し 我母校 


松本深志高校は明治9年(1876)にでき、今年で創立134年を迎える。各県に一つはある県立の名門高である。歴史がある学校は、語るべきことが多く、ここで述べた校章、校歌といったものはほんの一部であろう。古い校舎もあり、怪談の一つや二つありそうだ。


私は創立10周年といった中学や高校であったので、正直うらやましい。とはいっても新設校らしく、伝説は自分達でつくるというような変な活気があり、おもしろかったが。

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泥だらけの学生を15分程度眺めて、自宅に帰った。それから30分くらいたって夜7時をむかえると、松本深志高校から歌声が聞こえてきた。多分校歌だ(ひょっとしたら応援歌?)。この校歌を聞きながら、炎の周りをぐるぐる走っていた学生を思い浮かべると、なんだか学生が飛び回っているとんぼのように思えてきた。


とんぼなら、夏のこの時期より『古事記』に記してあるように穀物が実る秋の方がふさわしく感じる。


かっては10月におこなわれていたが、受験対策もあり平成9年(1996)より学園祭は7月におこなわれるようになった。全国的にそのような傾向はあるが、伝統校ですらという感じだ。


クラス替えがある1学期の季節より、当然2学期の季節の方が学友とより親密になる。私が高校生だった頃、3年になっても10月にあった学園祭の準備を進めるのが楽しく、気の早い者は夏休みからその準備をしていた。自分の体験からだが、今の1学期の終わりに学園祭をするというのは、どうかと思ってしまう。学校は上の学校に進学することだけが目的ではないのだから・・・・。よくよく考えれば私達の世代の方が子供の数が多く、一浪、二浪はあたり前で受験戦争も激しかったのに。7月に学園祭とは変な傾向であると思う。


しかし1・2年生はともかく3年生にとっては、推薦入試は以前より早くなる傾向はあるし、受験のことを考えると、この時期に学園祭を開くのはやむをえないかもしれない。


また私の時代でも、3年生に特に学園祭に参加しない人は多く。また自主活動が建前であるから先生方もこの状況を黙認していた。より多くの学生が参加するには7月がベストなのだろう。


だが気になる点がある。先に述べたが、松本深志高校での学園祭最後のファイヤーストームに参加していたのは300名位だったということだ。全校生徒1000名はいるが、明らかに全員参加していない。自主参加の催しだとは思うが、せっかく7月におこなっているのだから、もっと人数がいてもいいのに。いつの時期に学園祭をしても参加する人はするし、しない人はしないということであろうか。


在学中は分からないかもしれないが、高校時代は一度きりで、その時期にしかやれないことがある。それを自覚しているか、してないかは分からないが、少なくともそれを感じることができる学生が、学園祭に最後まで参加し炎の回りをがむしゃらに走り回っていたのだろう。


これぞ若さ!!これぞ青春!!。この学園祭を機会に男女が付き合い、10年後に結婚ということもあるかも。私にはそんなことはなかったけど(涙)。それも青春である。しかし10年後に結婚したからといっていい人生が送れるとは限らない。私の同年代、離婚が本当に多い。困ったことだ。


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桜の季節の松本深志高校 第一棟 昭和8年(1933)竣工 東京帝大安田講堂を手本にしたと伝えられている。


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松本城の南に、市街地の東西を横切るように女鳥羽川(メトバガワ)が流れている。


この川に沿って、ナワテ通りという道がある。屋台風の店が立ち並び、縁日のような感じがするところだ。観光スポットになっているところなので、他県の方でも知っている人は多いのでは(この通りについていは後日レポートします)。



今回はこの通りにある四柱神社を紹介したい。


四柱と書いて「ヨハシラ」と読む。「シハシラ」と地元の方でも読むことがあるが、それは間違いである。ヨハシラという理由は、天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四柱の神様を祀っている神社であるからだ。


またこの神社のことを親しみを込めて「シントサン」という通称で呼ぶことも多い。多いといっても年配の方しか通用しないが。松本に来て、通ぶって「シントサンはどこにありますか?」なんて道を聞かない方が無難である(元山梨県人の実体験、今はワケあって松本市民です)。しかし四柱神社でおこなう秋祭りを「神道祭り(シントマツリ)」と若い人も普通に言うので不思議。



この神社が創建されたのは、明治12年(1879)であり、わりと新しい。神仏分離令を布告し、神社優遇政策(寺院圧迫政策)を明治の初期、維新政府が推進するが、ちょうどその時にできた神社である。


明治の終わりに、火事で一回焼けており、現代ある社殿は大正13年(1924)に再建されたものである。詳しい歴史はこちら・・・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9F%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE


現代では、縁結びの神様として若い人の間でも人気で、よくカップルの姿が境内で見られる。地元タウン誌でも最近のパワースポットブームが反映して、よく紹介されている。

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てくがたのブログ 6月30日の午後に、ナワテ通りの老舗のパン屋さん「SWEET」でお昼をとった後、四柱神社を通りすぎようとする時「夏越大祓」という幟がその入り口のところにあり、目に入った。そして、境内を見るとその真ん中に直径2メートルはある立派な茅の輪(チノワ)があるではないか。


これを見て、オッ!!そういいえば今日は6月30日であることを思い出す。というのはこの日、全国的に神社で「夏越大祓(ナツコシノオオハラエ)」がおこなわれるからである。


毎年ニュースとかで、よく平安神宮あたりの、直径3mはある巨大な茅の輪を中を車が通りぬけているのを見た人も多いのではないか?


神社では、6月末と年末に半年の間に知らず知らずに犯した罪や心身の穢れを祓い清めて、正常な本来の姿に戻るための「大祓(オオハラエ)」がおこなわれる。 6月におこなわれるのを夏越大祓で、年末におこなわれるのが「年越大祓(年越のおおはらえ))と呼ばれている。


夏越大祓は、茅草(カヤグサ、自然に生えているススキや水辺のヨシ、稲ワラ、ササなどを総称)でできた輪を用いて、その輪をくぐることで穢れを祓うという神事をおこなう。茅草の持つ強い生命力は、神秘的な除災の力を有すると考えられてきたからだ。この神事のため夏越大祓のことを別名「茅の輪くぐり」「茅の輪神事」とも呼ぶ。


普通は人がくぐり、穢れを祓い無病息災を祈るのだが、平安神宮で車を茅の輪の中を通らせるのは、無事故を祈るためである。車社会に対応して近年このような形でもおこなうようになったのだと思う。


四柱神社の茅の輪には、細い綱によって、まだこの中をくぐれないようにしてあった。その綱には、夕方4時から神事がはじまることが告知する紙が張ってあった。


4時になり、特にする仕事もなかったので、私の欲深いあれやこれやの煩悩とともに、穢れを祓ってもらって、心気一転と思い、再び四柱神社に。


てくがたのブログ 4時を10分くらい過ぎて、四柱神社に着いた。もうすでに神社の神主・神官が整列して、神事をおこなっており、参拝者は整列してそれを見守っている(右写真)。


参拝者は100人程度で、お年寄りが多い。孫を連れてきている人もいた。また年少の子をつれた若いママもチラホラいた。もちろん私のようなネクタイつけたサラリーマンというのは、私の他には、取材にきた新聞社の方が2人いたのみである。


こういう平日の行事に参加すると、どうしても周りから浮く。スーツとか、ネクタイ姿だからかもしれないが、私服だったら、なおさらなぞの人である。


てくがたのブログ 社殿の前での神事が終わり、茅の輪くぐりがはじまった(左写真)。


神主を先頭に、神官、参拝者という順番に一列になってくぐりぬけていく。



くぐりぬける時に決まりがあり次の歌をうたわなければならない、

「水無月の 夏越の祓いする人は 千歳の命 延ふというなり」


てくがたのブログ ただ一回通り抜ければいいということではなく、境内の外の方から、茅の輪をくぐって、そのまま反時計周りにぐるっと周り、再び、茅の輪を通り抜けて、今度は逆に時計周りに回って、そしてまた茅の輪を通り抜ける。つまり8の字を描くようにして、計3回茅の輪を通り抜けるきまりとなっている。


てくがたのブログ 茅の輪くぐりが終わってから、神主はじめ神官の3人は、境内の外にある女鳥羽川の岸辺に向かう(左写真)。


橋の下には女子高生が2人おり、くつろいでいたが、それにはかまわず神事がはじまった。


いきなり神主・神官が現れ、川の周りには人だかりができ、この女子高生が神社でおこなわれていた夏越の大祓いのことを知らなければビックリしたことであろう。川から通りに上がる道を神主らにふさがれて、帰るに帰れなくなって、キョトンとした表情で神事を眺めていた。


神官2人が境内から運んできた木の箱から、神主が和紙に包みを取り出し、祈祷した後にそれを女鳥羽川にそっと流した(下写真)。


これで、夏越の大祓いの神事が全て終わる。

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てくがたのブログ 神主が川に流した包みの中に入っていたのは、このような人形(ヒトガタ)である。長さは13cm、幅8cmの大きさだ。


この人形は夏越の大祓いの神事が始まる前に、神社で配っていた。これに住所・氏名・生年月日を書いて、それを自分の体に撫でつけて、息を3回吹きかける。そうするとこれをおこなった本人の穢れが人形に移り、病や災難から身を守ることができるとされている。


神主が川に人形を流すのは、マチの外に穢れを追い払うためである。


当日ここにこれなくても、四柱神社では郵送でも人形を受け付けている。しかし神社に配達されなくて、間違って違う人の所に届いたら気持ち悪い。自分の穢れを他人に押し付け、相手に災いをもとらすということになる。


夢枕獏 著の『陰陽師』で人形を使って、恨みをはらすといったシーンが出てくるが、それを思い起こさせる。それをしてみたいなんていう嫌な奴はいないでもないが、この人形だと名前を記入するため、すごくオープンな恨みのはらし方だ。その後どうなるのだろう。

恨みを買いそうで逆に怖い。


そんな度胸がある人は、最初から人形なんてものを使って恨みをはらそうなんてせず、どうどうと相手と向かいあい決着をつけるはずだ。何らかの事情で表だってそうできない人が人形を使って恨みをはらそうとするのだから、後で証拠が残るような自分の名前を記入した人形を使うという方法はないですよね(ひょっとしたらあるのかなぁ、知っている人教えて下さい)。

てくがたのブログ この夏越の大祓の神事の最中、「藤むら」という地元の和菓子さん
が「水無月(みなづき)という季節の菓子を販売していた。1個100円で、3個入りと5個入りが売られていた(右写真)。


平安時代、氷室(冷蔵庫がない時代、冬場にできた氷を夏まで貯蔵する倉)から出した氷を夏に口にすれば、病気にならないという言われていた事に、この和菓子の由来がある。


三角形の形が「氷」を表し、葛ういろうの上にのせてある小豆には、「魔よけ」の意味があるとのことである(下写真)。


お菓子屋さんに、冷やした方がおいしいですよと言われていたので、冷蔵庫で冷やしたものを食べた。食べた瞬間ひんやりして口当たりがよく、控えめな甘さと、あっさりとした後味ため、暑い時期でもすんなりと頂ける感じであった。葛ういろうと羊羹は同じようなもちもちした食べ物であるが、羊羹にはない上品な味わいがあった。夏に水羊羹があるが、葛ういろうの方がこの季節にはふさわしいの食べ物ではないかと、勝手に思った。

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ちなみに夏越の大祓えで使われた茅の輪は、夏越の大祓があった日から、1週間境内にあった。その間自由に参拝者はその中をくぐることができた。


ある日、境内を見ると、犬の散歩をしている女の子が、犬とともにくぐっていた。そもそも犬とかいった動物は穢れの対象で、神聖な茅の輪をくぐることは本来いけないことになるのでは? 神社の境内に入ることもいけないのでは? と思いつつも、自動車が茅の輪をくぐる時代で、そもそも女性だって同じような理由で境内に入ることができなかったはずだし(巫女は別)、時代に合わせて伝統も変わっているのだという民俗事象として理解し、おもしろくそのシーンを眺めた。


プードルを連れたかわいらしい女の子が茅の輪を不思議そうに見て、茅の輪くぐりの説明が書いてある掲示をしっかり読んでから、それをくぐる姿を見ていたら、すごくほほえましく感じた。その姿を見ていたら小難しい話は、どうでもいいかなっていう気分になった。


そういえば、このシーンを眺めているだけで、写真を撮ることができなかった残念!!