1月8日の夕方5時頃、スーパーに買い物に行く途中、ビルから煙を発見。
火事か!!と思ってしまうような情景だが、実は松本の伝統行事「三九郎」からの煙である。
三九郎といっても、松本周辺に住んでいなければ、何のことだか分からないと思うが、呼び方が違うだけでこの時期日本全国多くの場所でおこなわれている行事だ。
門松といった正月飾りや、古いお札やだるま・書初めといったものを焼いて、そして子ども達が繭玉(団子)をその火で焼いて食べる。そうドンド焼きと多くの地域で呼ばれる行事である。
三九郎と呼ぶ地域は松本を中心として中信地方の大部分に及ぶ。それらの地域では、正月飾り等を焼く際、竹や木や藁を使いヤグラを組むが、そのヤグラ自体のことも三九郎という。
ビルの背面から見えた煙は、この近くにある沢村公園でおこなっていた三九郎からのものだ。松本城から北へ1kmの場所にある。さっそく訪ねてみる。
100人以上の人達が火の回りを囲んで、親子が一緒になって、柳の木につけた赤や黄といった色とりどりの繭玉を焼いている。
日が沈み、月が見え、正月飾りなどを焼いた火から、火花が空に向かって飛び散り、そして消えていく。きれいな情景だ。
気温は氷点下になっているので、火の回りだけ暖かく、そのそばで親子がその暖かさを共有するように寄り添うようにしている。いい親子の思い出になるだろう。
こういう思い出づくりはできる時にした方がいい。三九郎に参加する子どもは小学生である。誰でも成長してから実感することだと思うが、小学生にとっての親との触れ合いは、それ以降の年齢では感じることができないほど楽しいものであったし、そして特別なものであった。逆に親にとっても、小学生の頃の子どもとの思い出はかけがいのないものである。
公園のすみにはテントがあり、お母様方がトン汁をつくり振舞っていた。
聞くと、この行事をするための準備は大変らしい。正月飾りを集めたり、繭玉をつける柳の木を希望者に配布したり、また三九郎のヤグラを組んだり、これら全部をこの地域の大人達が中心となりおこなう。終わってからも大変で、火を消し、灰や燃えカスを全て回収しなければならない。
地域のさまざまな人に支えられて、三九郎が毎年おこなわれていることが分かる。
いま紹介した三九郎は、沢村という場所でおこなわれたものであるが、現在1月の第2日曜日中心に松本市内だけでも400ヶ所以上でおこなわれている。
これは翌日の9日に撮影したもの。
場所は女鳥羽川の川原。松本駅北側に位置する今町の三九郎。
松本市街地には女鳥羽川や薄川といった川が流れているが、その川原に、この時期大・小さまざまな大きさの三九郎が並んでおり、集中している。
大きなもので高さ5m、小さなもので2mほど。いずれも頭にだるまをつけ、また複数のだるまをひもで数珠つなぎにしてヤグラを飾りつけている。
自宅のそばの松本深志高校のグラウンドでも、5mほどの高さの三九郎が二つつくってあり、それらがだるまの数珠で結ばれていた。
この三九郎は、蟻ヶ崎東町と蟻ヶ崎深志ヶ丘町の二つの町会が合同でつくったものである。9日の昼頃から60代以上といった年配の男性10人ほどが中心で組み立てていた。
4時になると、繭玉をつけた柳の木を手にした親子が何組も、このグラウンドに集まってきた。親子合わせて100人はこえている人数。
この地区にお住まいの神主さんによって、子どもの健康を祈る祝詞とお祓い儀式がまずおこなわれた。
その後、小学6年生の男女が三九郎の周りに集められ、大人の指示のもとで、手にした松明で、それに火をつけた。
三九郎がまたたく間に燃えていく。
ヤグラが崩れ、火がくすぶるようになる頃を見計らって、繭玉焼きがはじまる。火がおさまったといっても、まだその周りは熱風でかなり熱さを感じるので、皆手を伸ばして腰を引いた状態で繭玉を焼いている。
この蟻ヶ崎の三九郎も、先に紹介した沢村のものと同じように、地域のさまざまの大人達の支えがあって続けられている。正月飾りを集めからヤグラを組みこと、また柳の木の配布といった作業等々・・・・。
しかし、70歳をこえるような年配の方と話をすると、大分今と昔では三九郎のありかたが大きく変化したということがわかる。
まず大きな違いは昔の三九郎は、子どもが主体でおこなっていたということである。国民学校の高等科(高等小学校)の14歳くらいのガキ大将がリーダーになって、正月飾りをリアカーを引いて集めたり、山や川にいってヤグラを組む竹・木そして繭玉をつける柳の木を集め、また5mをこえるような高さのヤグラを組むこともした。もちろん15歳以上の若い衆や大人達も手助けすることもあったというが、あくまで主体は子ども達である。今回紹介した三九郎では多少は子どもが手伝ったのかもしれないが、これらのことはいずれも大人達が中心におこなっていた。
また子どもといっても昔は、女の子はその仲間には入れず、三九郎は男の子の行事といってよかった。
蟻ヶ崎の三九郎を取り仕切っていた福沢さんに昔の思い出話しを聞いた。福沢さんは昭和10年生まれで、現在75歳。現在蟻ヶ崎で住んでいるが、少年時代は松本市街地東部の元町に過ごしている。大学卒業後木曽地域の神社の神主をしている関係で、先に述べたように三九郎をはじめる前に祝詞を唱えたり、お祓いをしていた。これは、伝統的なものではなく、福沢さんのアレンジ。
「私が小さい頃は戦時中になるのですが、三九郎をしていた記憶があります。高等科の生徒が中心になって年下の子ども達を使って、門松やらお札とかを集め、そして山にいってシンボク(松や杉といった木)を切り出し、田んぼで三九郎をつくったものです。なるべく他の地域のものより大きくつくることを目標にしていました。
その作業は、正月の外飾りを外す、1月7日からはじめます。そして10日くらいにはヤグラを組みます。現在の三九郎とは違い、藁や松を使って外壁をしっかりつくって、中に4・5人入れる空間を作ります。その中に七輪を入れて寒くないようにして、かわりがわり入ってすご六や花札なんかして遊んだものです。高等科のガキ大将なんか中に入って、小さい子に餅もって来いとか、煎餅持って来いとかいって命令するんです。当時の年上は絶対でしたので、命令を受けたら家に帰ったりして何とかしていました。
どの地区も三九郎をつくっていましたけど、それを組み上げたら、油断ができなくなります。隣マチの子どもが火をつけにくるからです。ちゃんと外に見張りを立たせていました。もちろんその役割は下級生です。そのために学校を休んだり、三九郎の中で泊まりこんだりしたこともあります。見張りといっても遊びながらなので楽しいことでしたが。
またガキ大将を中心に逆に火をつけにいくということもしていました。なかなか成功することではなく、それがばれて、ケンカして終わることがほとんどでした」
子ども達が自らがガキ大将を中心とした社会をつくり、自分達で創意工夫して三九郎をつくりあげていたことがわかる。また他地域の子ども達と競争し、時にはケンカもするのも楽しげだ。
そして福沢さんが懐かしい思い出として、教えてくれたのが、三九郎の時にうたった歌である。三九郎の中でこもっている時、皆でうたったり、三九郎を焼く時にうたったという。
「意味はよく分からないような歌を、三九郎の時、上級生から習ってうたったよね。ちょっとエッチな歌もあったんですよ。
“三九郎、三九郎、はじめて都にのぼるとき、鳥のおかめに見つかって、ワーイのワーイのワーイ”
“三九郎、三九郎、まわりまんこに毛が生えて、中はちゃっとちょぼくんで、ワーイのワーイのワーイ”
他にもいろいろあったと思うが、忘れちまったなあ」
私と福沢さんの話を聞いていた、別のお年寄りがこんなのもあったなと言い、次のような歌を教えてくれた。
“三九郎、三九郎、となりの母ちゃん夜這いして、鳥のとうちゃんに見つかって、ワーイのワーイのワーイ”
これらの歌は三九郎がかってはさまざまな意味があったことを教えてくれる。
エッチな歌詞があるのは、三九郎に子孫繁栄とか五穀豊穣を祈るといった要素があることを示している。歌をうたっている子ども達にとっては、いがやうえにも異性への興味がわくものであり、年長者から下級生への性教育的側面もあるだろし、下級生にとってはこの歌を覚え、うたうことで、ちょっと成長したような気分にもなったろう。
また“鳥のおかめ”とか“鳥のとうちゃん”という歌詞からは、「鳥追い行事」としての側面があったことも示している。地域によってやりかたは違うが、鳥追い行事とは、鳥を追う歌をうたうことで、田畑の鳥害を防ぐというものであり、三九郎と同じく小正月にあたるこの時期に、東日本を中心におこなわれる。
松本市立博物館が昭和60年(1985)に刊行した『松本の三九郎』を読むと、まだまだ色々の歌があったことが分かる。三九郎、三九郎にはじまり、ワーイのワーイのワーイで終わりのは共通しているが、歌詞の内容は地域によって異なっており、子ども達が冗談めかしてうたって、少しずつ歌詞内容が変わっていったようでおもしろい。福沢さんも私との会話のなかで、当時子ども達は歌詞を変えながらおもしろおかしくうたっていたことを述べている。
現在でも歌をうたっている地域はある。昭和58年度の調査では約37%の地区でうたわれている。しかしほとんどの所が、あたりさわりのない歌詞となっている。以前の歌詞とは明らかに違う(『松本の三九郎』 参照)。
例えば、この当時一番うたわれていた歌が、これである(うたっている地域の6割)。
“三九郎、三九郎、じいさん、ばあさん、孫つれて、お団子焼きにきておくれ”
6割が同じで、さらに一つの地区で複数の歌がない。このことは歌のバリエーションが減っていることも示している。
それはなぜか?
答えは簡単である。戦前から卑猥な歌をうたわないようにしようという運動が、学校教育の側からあったようだが、戦後のある時期以降、それが親も巻き込んでの全体的な流れとなって、あたりさわりのない歌だけをうたわせるようにしたからだ。
それが象徴的に分かる事例がある。
三九郎は、道祖神信仰と結びついており、三九郎をおこなう時に男女の形をした木造の道祖神やオンマラ様と呼ぶ男性性器をかたどったものを祀るといった地域が多くあったが、戦後しだいに祀らなくなり、昭和30年代には市の博物館に寄贈するようになる。特に旧城下町にある各地域はそうである。
性的なものを排除して、子どもに「健全」な教育をしていこうという大人側からの強い意志を感じることができる。
性的なものを排除するだけではなく、三九郎における子ども達の主体性を大人達は奪っていく。徐々に大人が正月飾りを集めるところから、三九郎の行事全体に口を出すようになったようだ。
そうなると子どもは自分達の創意工夫する場、なにより自分達子どもだけの社会を奪われた形となる。親の監視つきの三九郎などおもしろくなくて当然である。
その結果、卑猥な歌はなくなったし、木の切り出しからの三九郎の一連の組み立て、三九郎内での遊び、違う地区との火付け合戦等、戦後子ども達がしなくなっていたことは多い。
まだ監視しようという親はまだ立派だと思うが、このような行事対して無関心な親も戦後多くなったようだ。監視されることによって積極的に子どもが参加しなくなり、そして親も行事に対して無関心となると、どんな伝統行事でも衰退する。
私が取材した蟻ヶ崎でも、今は100人以上が集まっているが、15年くらい前は親子あわせて50人を切るといった状況であったらしい。
しかしこのままだと地域行事がなくなってしまうという危機感から、松本全体の動きであるが、公民館活動、町会活動を通して、親達の意識を変えていき、また多くの子ども達が参加する三九郎になってきたようである。
私が話しを聞いた福沢さんが、神主の格好でお祓い等を三九郎の場でするようになったのは、少しでも三九郎が盛り上がればと思い、自分ができることをしようという心の現われであろう。もちろん三九郎が後の世代まで伝わっていけばと思いがあればこそである。
確かに、今の三九郎は戦前の三九郎とは大きく変化した。しかし私は今の三九郎を否定しようとは思わない。先に述べたが、親子が触れ合う貴重な思い出の場として重要であるからだ。そこで親子で繭玉を焼いて、食べる意味とか、書初めを焼く意味とかを語りあってほしい。伝統行事に親子が一緒に触れるというまたとない機会となるだろう。
実際親子で参加しやすいように、ほとんど地域でそれを考慮している。それは三九郎の実施日時の変化から分かる。
三九郎は1月14日や15日におこなう小正月の行事であったのを、平成11年(1999)休日法が改正となり、三九郎をする多くの地域は、1月の第二日曜日前後におこなうようになっている。また昔は夜暗くなってから三九郎を焼いていたのを、家族で過ごす夕食時間の邪魔をしないように、まだ日が出ている4時とか5時とかから行う地域が多いようだ。
何の伝統行事であっても変化していくものである。なぜ全国的にドント焼きといわれる行事が松本を中心とする地域では三九郎と呼ぶのか、しっかりと答えることができる人は皆無である。学者でも意見が割れる。伝承されていく過程で、その行事の意味合い、内容が変化していったからこそ、三九郎という名前の由来が人々の記憶から忘れ去られてしまったからだと思われる。
時代の変化に合わない伝統行事は衰退していき、人々にとっての魅力は失い、一部の人だけがおこなう「伝統芸能」という見世物になっていく。三九郎がいつはじまったか論じる力はないが、今まで続いているのは、常に人々にとって魅力的なものを取り入れていって、時代にあわないものを捨てていったからに他ならない。
ただ、今のままの変化でいいとは私個人は思っていない。子ども達が三九郎の準備段階から積極的に参加してほしい気持ちはある。そこで年齢が違い、生活環境も異なる子どもたちどうしが一つの作業をすることで、人との接し方という点で学べることがあるだろうし、また子どもの視点ながら地域のことを知る機会となるだろう。いずれも学校教育では得ることができないことだ。このような経験を数多くすることで、子ども達は地域に愛着をもち、大人になっても何らの形で生まれ育った地域に関わっていこうとするだろう。
近年になってようやく、子ども主体の三九郎に戻そうという動きがでてきている。松本市郊外のまだ伝統色が強い地域で、このような試みがなされているようだ。私が今回取材した沢村、蟻ヶ崎は戦後人口が増加したところで、核家族世帯が多く、子どもの数も多い地域である。来年は郊外の伝統色が強い地域の取材いき、また三九郎の違った側面を見れたらいいなと思っている。
ところで、この時期松本でスーパーに入ると、このような商品棚のコーナーがある。三九郎コーナーだ。
一番右はじには、商品化された砂糖入りの繭玉があり、その隣には手作り用に米粉が置いてある。そしてその左横で棚全体の半分のスペースを占めているのが、マシュマロだ。
現在マシュマロも繭玉として使われているらしい。このスーパー(アップルランド桐店)では5年ほど前からこのような形でマシュマロを販売しているとのこと。
たしかにマシュマロは少し焼くとおいしいが、五穀豊穣という意味合いで米が原料の団子なのにいいのか?
マシュマロの原料は粉ゼラチン、卵白、砂糖、バニラエッセンスといったところだ。五穀とは関係なし。まぁおいしいからいいような気もする。
果たしてマシュマロは繭玉として、この先10年、20年後、存在するのだろうか?
こんなものまで、伝統と変化の狭間で揺れながら、現在の三九郎はある。



































