朝起きて、ごはんを食べて、仕事をして、友人とくだらない話をして、映画を観て、テレビを観て、ラジオを聴き、写真を撮り、散歩をして、車を運転して、買い物をして、洗濯をして、料理をつくり、パソコンをいじり、音楽を楽しみ、酒を飲み、女の子につまらない冗談を言い、家族を気づかい、風呂に入り、そして寝る。


そんなあたり前の日常がこんなに幸せのことだなんて・・・・・。


今回のことで、私ができたのは、電車等が動かず交通が麻痺した東京に、友人を車で迎えにいったことぐらいだ。


がんばれという言葉をかけること自体が軽く感じて、空回りしてしまう現実。


この状態の中、いったい僕に何ができるのだろうか?


義援金や節電や・・・・・、その行為のむなしさを感じながらも祈ること。そして、やっぱり誰が読んでいるか分からないこのブログを通して、今回のことで被害にあわれた方に励ましの言葉を贈りたい。


「がんばれ!!世界中の皆が応援しているぞ!!」


てくてく歩いていくと・・・・。


先日に続き高砂通りネタ


高砂通りは、松本駅から東に徒歩5分のところ位置し、人形店が集まっているのが特徴だ。


松本は近年再開発が進み、小奇麗な感じがするマチになったが、まだまだ路地に入ると昭和の感じがするような場所がある。高砂通りはそんな場所の一つだ。 


前回、前々回、人形店を中心としたことを書いたので、それ以外のお店をいくつか紹介したい。
てくてく歩いていくと・・・・。 「つる新 種苗店」


元禄年間(1688~1704)に創業したという老舗。古くは干物屋をしており、名古屋方面から貝などを仕入れていた。戦後になり肥料や種を扱う店となった。




てくてく歩いていくと・・・・。
「大和信水堂」


明治35年(1902)創業。創業当時は、同じく市街地にある六九町にあり、その後本町に移店して、昭和になってから、現位置に。筆・墨・書道用品の専門店。











てくてく歩いていくと・・・・。
「岡田サイクル」


昭和3年(1928)創業の自転車。昭和30年頃にはここで車を売っていたこともあった。






てくてく歩いていくと・・・・。
今は民家として利用されているが、かっては呉服屋であった。








てくてく歩いていくと・・・・。 「山田真綿店」


大正9年創業。真綿を製造販売しながら、ひな人形の販売をしていたお店。今は商売をやめている。この写真の建物も、昨年改装し、山田真綿店という店名が壁からなくなる。












てくてく歩いていくと・・・・。 「きふさ」


もともと松本市内の新橋にあり、乾物を扱っていた。大正13年(1924)に現場所に移転。その後主に鶏卵や鳥肉を扱い、季節になると松茸・栗や、そして冬には焼き鳥の販売もしていた。長年、鶏卵・鶏肉を販売するお店として親しまれていたが、昨年冬、商いをやめている。店主だったおばぁちゃんの元気な姿を、この通りを歩くと、お見かけするので安心だ。ここで売っていた茶色の健康そうな卵が懐かしい。




てくてく歩いていくと・・・・。 「細田書店」


明治の終わり頃、松本市街地の伊勢町で「ヤマトヤ書店」として創業。昭和29年(1951)に、この通りに移転。松本関係の郷土書や、山岳関係の本が充実している。古書が中心だが、新刊もある。










てくてく歩いていくと・・・・。 「源泉堂」


寛政年間(1789~1801)に表具屋として創業。江戸時代には松本藩の表具師として御用職人を勤めていた。現在、色とりどりの各種和紙を中心に祝儀用品、工芸品なども売っている。


てくてく歩いていくと・・・・。

源泉堂では季節に合わせた工芸品が販売されている。2・3月はひな人形。お内裏様がかわいらしい。






高砂通りは、江戸時代には「生安寺小路」と呼ばれていた。生安寺が現パルコの位置にあり、そこの門前に当たる通りであったためだ。生安寺は昭和30年代の後半に松本市内の蟻ヶ崎に移転している。


高砂通りと呼ばれるようになったのははっきりはしないが、明治31年(1898)に刊行された『松本繁昌記』に「高砂町」という記述があり、また大正元年(1912)の地図に「高砂町」という地名が記されている。明治初期の地図では生安寺小路の地名であるので、高砂通りといわれるようになったのは明治の終わり頃だと推定される。


高砂通りの名前の由来として、旧『松本市史』に次のように書かれている。

「有名な古語、高砂の屋上の松に基づき、松本に因めるなり」


能とかで演じられることが多い「高砂」をご存知だろうか? 相生の松によせて年を重ねた夫婦がその愛を確かめ、長寿を喜び、人生や世の中を祝うという大変めでたい能である。よく結婚式でも、謡われたりする。


つまり松本という地名にちなんで、松と関係深い高砂という地名をつけたと、旧市史では指摘しているのである。しかしなぜ地名が変わったのかは何も記されていない。


ただ私なりに推測はできる。明治21年に「極楽寺の火事」と呼ばれる火事があり、高砂通りの周辺を含め松本城の南に流れる女鳥羽川以南の広範囲の地域が被害を受けている。その復興期にこの通りに住む人が、末永く幸せ暮らせるようにという気持ちを込めて、このような地名にしたと考えることができないだろうか。


またこの名称は人形のマチということも関係しているであろう。結婚式の贈答品として爺・婆一対の高砂人形と呼ばれるものがあるからだ。今ある人形店の店主に高砂通りの由来を聞くと、決まってこの答えが返ってくる。


このように明治の終わり頃から高砂通りと呼ばれるようになるが、まったくこれで生安寺小路という言い方をしなくなったかというと、それは違うようだ。大正生まれの方や、昭和一桁生まれの方の話を聞くと、戦前には生安寺小路という言い方も普通にしており、高砂通りという言い方が普通になるのは戦後のことであるらしい。生安寺が昭和30年代の終わりまで現パルコの位置にあったからだと思われる。


てくてく歩いていくと・・・・。 緑屋さんで売られていた高砂人形









高砂通りと呼ばれるようになった頃の、このマチの様子を先にあげた『松本繁昌記』には次のように記されている。

「毎年上巳及び端午の節句前に至れば当地に於いて最も有名なる押絵雛人形槍幟を販売するを例とす、實に節句用の押絵雛人形及び付属品類の市たる古来より高砂町に限り市中は勿論遠近より群集する老幼男女夥しく松本の十軒店とも評すべき有様なり」


上巳並び端午の節句時に人形など売る市が開かれ、賑やかであったことが述べられている。松本を中心とする地域ではこれらの節句は1ヶ月遅れで祝う風習があり、つまり上巳の節句は4月3日、端午の節句は6月5日にあたる。


戦前、ひな市があった頃、今と比べることができないほど高砂通りは賑やかだったと、昔の様子を知る方は誰でも口をそろえる。


戦前の高砂通りでのひな市の様子を、大橋通りにあるベラミ人形店の三村和子さん(昭和3年生まれ)に語っていただいた。高砂通りではないが、その入り口の本町通りに沿いに洋服と舞踏人形を主な商品として扱う「遠條」という店があり(今も店名が違うがある)、その店を三村さんの親が営んでいた。


「3月のお彼岸を迎え、大安の日になるとどの店も一斉に人形を店前に飾り、売っていました。多くのひな人形を扱っているお店もありましたが、床屋さんとか、自転車とかいったお店も椅子の上にひと組のひな人形を並べて売っていました。

また東京や埼玉からも人形を売る業者が来て、それらの業者にその時期だけ店の一部や全体を間貸しする人もいました。このような店のことを出店(でみせ)と呼びました。

こんな感じだから、高砂通りのほとんどのお店でひな人形を売っているような状況でした」



「ベラミ人形店」三村和子さんてくてく歩いていくと・・・・。


松本を代表する人形師のお一人。かって制作していた人に話しを聞いたり、博物館で実物に触れたりして、独学で勉強し、一時期つくる人がいなくなった松本の押絵びなを復活させた功労者。現在、夫と息子夫婦4人で日々人形を制作するとともに、希望者を募り、広く一般の人にも人形づくりを教えている。


いつお会いしても笑顔が素敵なかわいいチャーミングなおばあちゃんです。




三村さんからは聞くことはできなかったが、戦前には綿菓子や飴といったような屋台も出てお祭りのような雰囲気であったと語ってくれた人もいた。昭和7年生まれの中町で少女時代すごしたという方の思い出だ。これと同じようなことは『松本市史 民俗編』にも書かれている。


また三村さんはひな市に訪れる人について次のように語っている。

「当時、別にひな人形を買うつもりがなくても高砂通りに来る人が多くいたんですよ。“ひな人形でも見にいくか”何て言ってね。暖かくなって散歩にはいい季節になっているのも関係するんじゃないかしら。そんな感じだからあの狭い通りが人で混雑して、親子連れも多かったので迷子がでるほどでした。

夜になっても何をするということもない人も歩いていて、時には店の中の入ってひな人形を眺めていました。今とは違って当時皆、店と家族が住む住居が一緒でしたので、夜12時近くまで店に明かりをつけており、少しでもひな人形を売ろうとしていたんです。夜歩くとその明かりの中のある人形がきれいで、買うという目的がなくてもここを散歩したくなる気持ちは分かりますね」


戦前のようなにぎやかさは、戦後にはなかったと三村さんは述べていたが、戦後の30年代頃まではまだひな人形の時期になると、広く松本周辺地域から人が多く集まりひな人形を買い求めていたようだ。高砂通りの人形店「人形の緑屋」を営む百瀬幹夫さん(昭和17年生まれ)は述べる。

「昭和20年代の私の子どもの頃には、もう綿菓子や飴といったものを売る屋台といったものは出なかったけど、何店舗かあった通りにあるお菓子屋さんが、今でいうワゴンセールみたいに木製の荷台にお菓子や饅頭などを並べて売っていましたし、同じような形でおもちゃを売っていたお店もありました。外の人ではなく店をもつ人が屋台を出す感じでした。

そして4月3日が近づくと人がたくさん来るようになりますから、その時期はお祭りのような感じでしたよ。当時は道路を挟んで倉庫と店舗があったのですが、倉庫からの荷物に店舗まで運ぼうとしても、ほんの幅5メートル程度の道が人がたくさんいるため、横切るだけでも大変だった記憶があります。

また暖かくなってきたこともあるのでしょう、夜だって、人形を眺めながらそぞろ歩きをしている人がたくさんいました。居酒屋や小料理屋で一杯ひっかけて、店頭で売っている饅頭な買いながらフラフラ歩いていた人もいましたね。でもそんな人ばかりではなく、夜に人形を買い求めに来る人もいました。遠方の方とかそうでしたね。

また夜・昼関係なしの話しですが、店内に入ってきても、世間話しをして人形を眺めるだけで帰ってしまう人もいました。そんな人を“ひやかし”と呼びました」


昭和30年代に入ってからも、多くの人が4月3日が近くなると高砂通りに押し寄せたのがよく分かる。


この当時でも、東京などの地域から人形業者がお店を借りて営業するといった業者はあったようだ。出店は3軒くらいはあったと百瀬さんは述べている。しかし三村さんをはじめ戦前のことを知っている方は、30年代に入るとしだいに出店もそうだけど人形を取り扱う店も減ったということを述べる。


また戦前では彼岸すぎてからどの店も人形を売っていたのが、昭和30年代に入る頃から3月に入る前くらいから人形を店頭に並べるようなお店が増えたようだ。


この変化はなぜおこったのであろうか? 消費者の需要拡大を背景として、積極的に人形を販売する店がこの時になって現われたということに、私はその答えを求めたい。


戦前において人形を取り扱っていた業者には、一つの特徴がある。それは人形以外にもメインの商品があったということだ。洋服とか自転車とか魚とか。自分で納入先を得なかったお店は東京などの業者に間貸ししたに過ぎず、自分で売るかどうかという違いはあるけれどもその本質は同じだ。


いくつか例をあげておきたい。


緑屋は明治23年(1890)に創業している。その当時は玩具を中心にして売っており、しだいにつけ木やマッチといったものや、たわしといった生活雑貨を取り扱うようになる。そしてたくさんある商品の一つとして人形も販売を始めて、徐々にその量を増やしていったらしい。特に戦後、あれば売れるという状況であったため、トラックを使い在庫を多くかかえ、販売量を増やしている。緑屋の場合、戦後生活雑貨にも力を入れていったので、人形を売りながら生活雑貨も売るという形については、戦前と違いはない。しかしその両者で戦後積極的な営業を展開し売り上げをのばしている。


花岡人形店は、もともと昭和26年(1951)に「花岡洋服店」として開店している。開店して2年くらいしてから時期になると人形を取り扱うようになる。人形の売り上げが好調であったため昭和30年代に入る頃には、洋服の販売をやめ、専門の人形店になっている。


村山人形店も、戦後人形を販売しはじめた店だ。高砂通りに店を構えたのは昭和25年(1950)でその時は、団子や大学いもをつくっていた菓子店であった。その当時は、毎年彼岸の時期になると自分の店舗を、群馬からくる人形業者に貸していた。昭和30年代のはじめ頃転機を迎える。群馬からの出店として、ひな人形を売っていた業者から、直接人形を売ってみないかという誘いがあり、人形の売り上げが好調ということもあり将来を見据えて菓子店をやめ、専門の人形店をはじめた。


この例にあげたいずれの業者も、昭和30年になる頃には積極的にひな人形を仕入れ、販売した業者だ。ひな人形を一対しか揃えないようなお店と明らかに違う。人々の生活が向上していく中、ひな人形が売れる時代になり、この流れに乗っていった業者だけが、しだいにひな人形を取り扱うようになったと言えるのではないか。


また出店が少なくなったことも、ひな人形が売れる時代になったことに関係すると考えられる。このような時代なら自分で決まった土地に店を出すことも容易ではなかったろうか。土地に定着して商売した方が、多くの品揃いのひな人形を売ることもできるし、信用も得やすくなり、長期にわたって商売ができるようになる。そんな時代にわざわざ競合する相手がいる松本に商売しに行く必要はない。


ちなみに、今、高砂通りのいずれの人形店も、上巳の節句のひな人形、端午の節句の五月飾り、お盆の盆提灯、そして正月用の干支飾りといったものをメインで取り扱っている。このような形で販売する業者が増えたのは昭和30年代といってよい。先に述べたように戦前においてはその他のものをメインで取り扱っていた業者が多かった。また屋号に「~人形店」等、人形という文字を入れるのはこの時期を迎えてからだ。


もう一つ戦前と昭和30年代以降で、大きく変わった点をあげれば、松本周辺地域の人形業者に卸すという機能が徐々に弱体化していくという点だ。高砂通りの人形店と同じように周辺部の業者もトラックなどを使い産地へ買い付けるようになるからだ。だからといって高砂通りの人形店が売り上げを落としたということはない、それ以上に小売りで人形が売れた時代であるからだ。


このような状況の中、彼岸すぎから4月3日迄、松本周辺の広い地域から高砂通りに人が押し寄せて来て、かって「ひな市」と呼ばれていた高砂通りの情景は、しだいに消えていくこととなる。その理由は、先に述べたように3月に入る前から長期間かけてひな人形を売る業者が現われたことと、しだいに高砂通りの卸しとしての機能が失うことであると考える。


また、ひな市が消えた要因としてもう一つ付け加えるとしたら、昭和30年代にはじまるテレビの普及に伴うライフスタイルの変化といったこともあげられる。かってのひな市はひな人形を買うにしろ、買わないにしろ、そこの雰囲気を楽しむといった心情を持っていた。テレビからの情報が、この心情に何らかな影響を与えたのではないか。それは何かと明確な答えを持ち合わせいないが、テレビによって、より多くのそして刺激的な情報がもたらされるようになったのは確実である。


テレビの影響で明確に変わっていったことがある。それは昭和40年代に入る頃にはひな祭りが、4月3日より、3月3日でおこなう家がしだいに増えていったことだ。現在では3月3日以降、ほとんどひな人形が売れない状況であるようだ。その結果今どの人形屋も1月の終わり頃にはひな人形を店内に飾るようになり、販売しだす。そして昔の伝統を考えて3月の終わりまでひな人形を飾っているお店もあるが、今多くの人形店は3月3日過ぎると、五月人形の飾りだす準備に入る。


テレビからの情報量は多く、多様性に富んだものではあるが、その情報を日本全国どこでも同じ内容のものを一斉流すとしたら、均質的な情報という言い方もできる。その結果として地域独自の文化が失われていく。ひな人形の飾る時期が変わっていったのは、そのいい例だ。


このような過程をへて、ひな市はなくなっていくこととなるが、子どもの数が多く、各家庭の所得水準が年々上昇していく昭和50年代まで、高砂通りの人形店は順調に売り上げを伸ばしていくことになる。


てくてく歩いていくと・・・・。

昨年の3月3日の高砂通り。午後2時頃、ひな人形を見にくる人がチラホラいた。