「シンリ」と読んで“信じる理”と書く日本単語ってどうして無いのだろう?
この「信理」、じつは「シンジンガタラン」という日本語慣用表現の文例から連想した私の造語なのだが…。コンピュータでシンジンと入力して検索かけると「信心」としか出てこない、シンジンを「信神」と記憶していた私は記憶違いをしていたのだろうか?
日本単語って。あるんだか、ないんだかさっぱり定まらないこと(ものすごく)多い。
そもそも「信心」にしたって「信神」にしたって。そう記したならば正しく文意を読み取ると内容はインチキそのものだ。信天とでも記せば、すこしは品が良くなるだろうけど?
① 信心 → 「心」ってなんだ?
スピリットのことか?マインドのことか??ハートのことか???
強いて強いて発意者が仮に泰史(わたしの名前です)だとして、わたし自身に唯一固有のものは『ハート』かもしれないが。「ハートのみを信じる」って、なんなんだそりゃあ。甘えるんじゃねえ!てめえは子供か!! 微塵も普遍性のない性質を、ま、恥をしのんで、あえてあえて公に公言するとしても、発意主旨の40%でさえ伝わる相手なんて日ごろ状況を共にする数人しか物理的に絶対いない人数のみじゃないか!!
もー、これはいったいなんなんだ? 仏教でいうところの唯意識を表意言語に結実させとるのか? ええっ? 本当に本当にこんなルールで正しい表意・意志伝達が、道具として全うに機能するとみなさん納得されるのでしょうか?
② 信神 → 「神」ってなんだ?
神という文字。これは厳格に意味を定めるとするなら「占い」だそうです。占い、が神という日本単語の意味規定の本旨だと仮定して、「信神が足らん、信神が足らん、、、」と他者からあなたが叱られているという情景を想像してみましょう。
もうおわかりですね。自身が発意したり定めた文字の意に従い「自ら」動くのでないことに
他者の定めた文字の意図した内容をそのまま丸ごとナゾルこと。つまり、教唆・煽動に騙されること、マインドコントロールの管理下に置かれること、をじつは表意していた日本語の文例が“シンジンガタラナイ”だったのですね。
えー加減、個人固有のハートのつぶやく感嘆・詠嘆の美辞麗句に躍らせられる生活様式・文化様式の地平から飛び立ってみませんか?
正しくは「信理」と書くべきでしょう。対話も、人権思想も、他者と連帯した決意から全てが生れ始まります。その決意を表意する言葉とは、まかり間違っても「信心」や「信神」では無い、断じて無いと思います。
私がもっとも忌み嫌う醜いモノである差別や棄民という行動。その原因は「誤訳単語による意味のループ」だと思います。
時制に縛られず、位置も判らず、複数か単数かでさえ定まらない。正しくない立脚点からの物言い。こんなものは一切合財、根本的に!根源的に!醜い土人の「メクラ蓋」です。そういうのをインチキと言います。
「理」は正しい言葉にのみ宿ります。互いに意味を定義しあった教養ある者達同士の2者間にしか真理なんて在りやしないのです、信理(理を信ずる)という状況それそのものが真理なのです。それは気まぐれで発生してはまた消える、くもりの日に指す雲の切れ間の日差しのように儚いものでしょ。ただし、信ずれば自ずと、行動せずにおられぬ勇気がふつふつと湧いてきます。我慢しようにも我慢できなくなります。発見した新らしい理は隣人に打ち明けられないでおられないでしょう、だって全てのヒトに自らの喜びそれがそのまま丸ごと伝意できる前提の世界の話ですもの
個人の心中の、しかもマインドの性質にしか無限の思考も絶対的高潔さも宿り得ないのです。ひとりひとりが心を開こうという決意を持ち、時制的にも位置的にも数量的にも立脚点を定めたなら。もうなにも欲しいものはありません。
名を名乗り自ら定め行動する者達はみな真理と共にあります。












