昨日の土曜日、映画「桜田門外ノ変」を観てきた
文明開化への先駆け的な事件の一つ。
①水戸藩脱藩浪士による、江戸城桜田門外での大老・井伊直弼暗殺は、なぜ起きたのか
②農民たちから水戸烈士と称えられた彼らが、悲惨な結末を迎えたのは、なぜだったのか
時は約150年前。
ペリーが開国を迫って軍艦7艘で来日、大型大砲などの武力を背景に通商条約締結を要求していた。
アヘン戦争に負けた清国の屈辱的状況を耳にしていた幕府は日本も同じようになるのではと恐れ、条約を締結しようとしたが、9代水戸藩主・徳川斉昭は猛反対。
将軍後継者選びも絡まって、両者の確執は深まっていった。
幕府最高権力者たる大老に就いた直弼(15代彦根藩主・伊武雅刀)は、反対意見の尊王攘夷派を弾圧、世に言う安政の大獄で、公家や、斉昭(北大路欣也)、松平春嶽(16代越前藩主・池内博之)ら親藩藩主までも蟄居謹慎させる強硬策に出た。
これらに猛反発したのが水戸藩士を中心とした尊攘派。
南郡奉行・金子孫二郎(柄本明)、北郡奉行・野村常之介(西村雅彦)、奥祐筆頭取・高橋多一郎(生瀬勝久)らは直弼暗殺を計画。
志に賛同した小普請・岡部三十郎(渡辺裕之)、藩士・関鉄之介(大沢たかお)、同・稲田重蔵(田中要次)、同・佐藤鉄三郎(渡部豪太)らは、関を現場指揮官に準備に入る。
この計画は直弼暗殺で終わるのではなく、暗殺と時を同じくして薩摩藩が3000人の兵を率いて上洛、幕府から朝廷を守る手はずになっていた。
それゆえ薩摩藩士・有村次左衛門(坂東巳之助)も計画に参加。1860年3月3日、直弼の首をとったのは彼だった。
――ここまでが、①の答え
では、②は――
薩摩では尊攘派の急先鋒だった島津斉彬が死去。
挙兵慎重派の久光が藩主となり、上洛どころか、水戸浪士との接触も罪となることに。
斉昭もまた、幕府と水戸の軋轢はアメリカの思うつぼになるとして、武田耕雲斎(榎本孝明)に浪士たちの捕縛と厳罰を命じたのだ。
志は挫折し、頼りの水戸藩からも拒絶された浪士は、ほぼ全員が、討死、自刃、切腹、斬首となって、翌61年までに命を落とした。
しかし、通商条約によって物価が高騰し生活に苦しんでいた庶民は、直弼を殺した水戸浪人を烈士として称えた。
袋田村の大庄屋・桜岡源次衛門(本田博太郎)も関を匿い、その使用人・与一(温水洋一)が世話をしていたが、結局水戸藩士に捕らえられて62年に斬首となる。
それからさらに6年後、斉昭の子・15代将軍慶喜によって大政が奉還され、江戸城を無血開城。
明治へと、時代は移っていく。
時代の大きなうねりのなかで、政治権力に翻弄される武士たちの悲劇。
映画は、淡々と浪士たち1人1人の死に立ち会う。
盛り上がるシーンが少ないし、薩摩や水戸の態度豹変も説明不足で分かりにくいが、この映画はそれで良いと思った
難癖つけるとすれば……
冒頭、現在の桜田門から雪の空をパーンして150年前の桜田門に。
最後、再び現在の桜田門と国会議事堂が。
最初のシーンは良いなぁと思ったが、意味深な最後のシーンで白けた。
余計な親切は迷惑。個人が感じるままでいいのでは
浪士たちのなかで唯一登場する、関の、おだやかな家族との生活。
それが一転、江戸には囲ってる女がいて、その女が事件後の拷問で死ぬなんて。
妻と息子の絶対的な信頼の理由が、見えなくなってくる。
それなら、幸せ家族生活シーンも不要と思うが…
井伊家の屋敷は桜田門に近い。
事件発生の知らせが行かないように、最後尾にも人を配置すべきと思うが、関は前と左右だけしか指示していなかった。
行列の通り道に、雪の中でたたずんでいる男たちって怪しいと、井伊家の家臣たちは思わなかったのかね。
その家臣たち、主君を守れなかった罪で、足軽以上は切腹させられたとか…
茨城県の市民団体が企画立案から製作まで協力。
県全体でロケが行われたそうだ
そういえば、私は天狗党を勘違いしていた
襲撃後に天狗党として逃亡、北陸から京に入ろうとして捕らえられたと思っていた。
天狗党が筑波山で挙兵したのは、桜田門の変から4年後のことだって
天狗党も尊攘派だけど、武田耕雲斎って、烈士捕縛役と同一人物なのか
佐藤純彌監督。
alanの唄う主題歌が、切なく響いて良い。
原作は吉村昭。