芥川龍之介
この話を振り返ってみたいと思います。
杜子春という一人の若者が中国の都、洛陽の西の門の下にたたずんでいました。
以前は、お金持ちの息子でしたが、財産を使いはたし、今は食べるものもなく、
日が暮れかかって泊まる所もない身の上でした。
そして、いっそ川へ身投げをしようとまで考えていたのです。
そこへ鉄冠子という仙人が現れ、一夜にして杜子春を大金持ちにします。
そして、一時は玄宗皇帝に負けないくらいぜいたくな暮らしをしますが、三年目には、
またもとのみすぼらしい姿になります。杜子春は仙人のおかげで二度までも大金持ちに
なりますが、人々の薄情なのにいや気がさし、今度は仙人になりたいと頼み込みます。
峨眉山という山へ修業へいった杜子春は、仙人から「いろんな魔物が現れて、お前を
たぶらそうとするだろうが、どんなことがあっても、決して声を出してはならない。
もし一言でも口をきいたら、仙人にならないよと、覚悟せよ」と言い渡されます。
しばらくすると、虎、大蛇、雷などが次々におそってきますが、声を出さないので
地獄に落とされました。地獄の大王である閻魔大王の命令で剣の山や血の池、
焦熱地獄などへ、かわるがわる放り込まれ、あらゆる苦しみにあいましたが、
仙人の言葉をかたくまもり続けます。
閻魔大王はついに、二頭の馬を連れてきます。その馬の顔はなんと亡くなった、
なつかしい父と母の顔をしているのです。閻魔大王は、二頭の馬を肉も骨も砕けるばかりに、うちのめしますが、それでも杜子春は、目をつぶって口をかたく閉ざしています。
そのとき、杜子春の耳に「お前さえ幸せになってくれれば、私たちはどうなってもよい
のだから大王が何といっても、言いたくないことはだまっておいで」と、なつかしい母の声が
かすかに伝わってきました。こんな苦しみを受けても、怨むこともなく、子供の幸せを願う
母の心に、ついに杜子春は仙人の戒めを忘れ、半死の馬のくびを抱いて涙を流しながら
「お母さん」と叫んでしまいました。
その声をだしたとたん、杜子春は夕陽を浴びて洛陽の西の門の下に立っているのに
気付きます。そして仙人が「もし、あの時、お前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を
絶ってしまおうと思っていたのだ。お前はもう仙人になりたいという望みを持っていまい。
大金持ちになることは、もとより愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、
何になったらよいと思うか」と話しかけると杜子春は「何になっても、人間らしい、
正直な暮らしをするつもりです」と答えました。若くして父母を失った杜子春は心の底に
生きていたのは、やはり父母の愛だったのです。
この愛によって杜子春は正しい方向に導かれました。