フィリップ=サンズ「ニュルンベルク合流」を読む。副題は「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源。読み進めていくうちに頭に浮かんだのは矢張りGENOCIDE ORGANであった。
ジェノサイドという言葉を考案したのはラファエル・レムキン、人道に対する罪の方はハーシュ・ラウターパクト。二人とも現在はウクライナ領であるリヴィウに住んだユダヤ人である。彼らが考案したこの2つのタームはニュルンベルク裁判で、頻度、深度の差はあるにせよ、それぞれ用いられた。しかしながら「ジェノサイド」という言葉の使用には当初よりある懸念が表明されていたという。それは「個人」に対する罪を規定する「人道に対する罪」に対し、「ジェノサイド」の客体が人種、民族、宗教的なグループなどである為、その人間集団の括りにこだわることにより逆に集団間の差異を鮮明にし、対立を煽り、結局は反ユダヤ主義といったような「生物学的思考」に陥るのではないかというものであった。つまり「ジェノサイド」という言葉が÷(分離、分割)や対立を呼ぶのではないかと考えられていたのだ。
ここを読んで図らずもGENOCIDE ORGANの事を考えた。対立の結果としてのGENOCIDEではなく、対立を招く概念としてのGENOCIDEの方が今現在のGENOCIDE ORGANには相応しいのではないかと思ったのだ。この考えは近作での民兵や特殊部隊への言及や2017年のシングル「Kahane Chai」から始まったファナティックな宗教活動に焦点を当てるシリーズなどから思い浮かんだものだ。
ただ理知的でニヒルな彼らはその当初から「ジェノサイド」という言葉に潜む危険性を分かっていたのかも知れない。何せ彼らはドイツ人であり、「ジェノサイド」に関しては子どものころから散々教育されていただろうから。
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the Grey Wolves - Division

 WHなどの使うナチイメージがポーズだけと分かるのはリアルタイムで時代の空気を吸いつつそれを体感していないから?今のHATEFULなパワエレのHATEをリアルと感じるのは時代と共にそれが深化しているから?これを考え始めると自分はもう音楽「自体」には大して興味が無いのかもしれないという結論に至る

この様に固定したツイートを過日ニュージーランドで乱射事件があった後にした当日、「何か聴き直したい作品は無いか」と部屋を漁っていたところ発見したのがこの箱入りCDであった。私の知人に「この世に偶然はない」と言う人がいて私はこの言葉がとても好きなのだが(低次元のシンクロニティをありがたがるのではなくもっとポジティブな意味で)、正にこのCDをその日に見つけたことは上記の言葉によってその喜びと驚きを増幅されたのだった。
多様性や絆という言葉が殆どその意味を失うまでに乱用されている今、GWのロゴマーク下に「DIVISION」ではなく、「÷」と記されている無機質なジャケットの放つ剥き出しの冷厳さは生半可なものでは無かった。その為に私は私室で暫くその重みに考え込んでしまった。家の中で死蔵されていた何か決定的にヤバい物を見つけてしまったかの様な心持であった。私がここ暫くHATEでマイナーなパワエレユニットを新たに見付けることに熱中していた最中、GWという名の知れた連中がリリースしたこの作品が我が家の片隅でその重要性に気付かれることもなくずっと息を潜めていたのだ。GWはその時点で既に現在の分割された世界を見据えていたのだろう。これから「÷」でしか表せない時代がやってくると分かっていたのだろう。9.11から2年後、現在から遡ること16年の2003年にリリースされたこの作品でそれまではどことなく彼の地に溢れるタブロイド紙やパンクっぽい不良性を纏っていたGWはがらりとその性格を変えてしまった様に個人的には感じる。もはやそんな時ではないと思ったのだろうか。随分と曲調がシリアスになった。インサートに記された文言や曲名、どこをとってもそこに「明るい未来」などというプロパガンダが入り込む余地はない。「This is not your country」という言葉も彼が誰かに発したものなのか、彼に向かって誰かから発せられたものなのか私には分からない。最終トラックでは聞き覚えのある詠唱の後に「GREY WOLVES IN THE AREA」とコードが発せられるがその「AREA」がどこであるのかも分からない。その「AREA」を見付け出したのか、若しくはその「AREA」を独り合点しているのか英国にはきな臭い憎しみを纏った連中が散見されるようになった。しかし、それとほぼ前後するようにGWは「EXIT STRATEGY」という如何様にも解釈できるタイトルで最終作を発表。何とも掴みどころの無いその内容そのままに姿を消した。
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ALLGRENA-Tonrader
我が敬愛する国家芸術社ことSTATEART。その中でSAZEROと異形の配給番号をつけられたVA-Wiederstandにはここでもいつか触れるであろう。その参加者達の硬い意志の結晶である「抵抗運動」に参加した者の一人であるオーストリアのALLGRENA。リチュアルの括りに入れられた上で語られる事が多い様であるが、彼等から感じる雰囲気は大方のリチュアル系とは異なるものだ。一方の活動の場が人里離れた場所であり、その音楽も人骨やら呪物やらを使用し奏でられるのに対し、こちらは時としてバイオリン、クラリネットという都市的、家庭的な楽器が奏でられる。曲名には「解放」、「夢」、「太古の」、「脱皮」などオカルト風の単語と「レーダー」、「ローター」という現代的単語が並立し、一方で「エゴへの行進」というそれこそSTATEART的タイトルの曲もある。アルバムは緊張感に溢れる静謐さがその殆どを覆っている。それがTurbund StrumwerkやS-Coreを思わせる部分もあり、それらの音からは精神的な高みへの志向を読み取ることが出来る。都市生活者で現代的生活を送っていても精神的高みへと向かうことが出来る。その様な意識がハノーファーとウィーンの集合住宅の一室に住んでいたであろう二人の都市生活者を結びつけたことは想像に難くない。
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Muslimgauze - UZI
もう全て廃棄してしまったので正確に記すことは出来ないが私がフールズメイト誌を読み始めた70号前後の誌上で「ノイズ」と言えば、少数の書き手さん以外は、「自己陶酔のオナニー」だの「垂れ流し」だのネガティブな表現のみでそれを語っていたように記憶している。まるで「ノイズ」と言うジャンル=好き勝手に酷評して良い唯一のジャンルと言わんばかりであった。その酷評ぶりに却って好奇心をそそられた私の様な存在があるのだからそれも又良しなのであろうが、兎に角、その取り上げ方は今の「ノイズ」への敬して遠ざける態度とかお洒落な小物風の扱い方からは程遠い物であった。この作品もその様な酷評の対象になっていたもので「なんとトホホのインダストリアル」とか「UZIってウジの事ですか」(冗談だと信じたい)というフレーズは今でも覚えている。それからいくらかの時間が経ち、私は当作品を手に入れ、「さてどの様なクズな垂れ流しインダストリアルノイズを聴くことができるのか」と非常に期待をしていたのだが、盤面から流れてきたのはMuslimgauzeという名前から想像できる音でしかなく、それにいたく失望した。JimiHendrix-Band of Gypsysと並んで「音楽評論家のいうことは信用出来ない」と肝に銘じさせてくれた一枚。
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V.A.-TRANSMISSION OF POWER
先日、ある方からメールを頂いた。その文中で私が電子雑音に書いたフレーズを覚えていただいていたのが嬉しく、また懐かしかったのでその元ネタであろうものを冒頭の煽り文句を削除、あるフレーズもネット上で使うと面倒臭いので削除、及び誤字など訂正の上で再掲する。当時、ブログでも言及頂いている方がいると教えて頂き有難く思ったのを覚えている。2001年、電子雑音6号より。
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軽薄短小な世界に背を向けた男達が集うスピーカーズコーナー
The Greywolves率いるOpen Wound初のCDRである。この作品の目的は名の知れたバンドと若手を一枚のCDRに収録し、シーンの底上げを図るというものであること。当然、我々リスナー側もそうあるべきであり、この作品は「ノイズはスノッブだから聴かない」と思っている人々が聴いてみるべき一枚でもある。この作品は庶民の手を離れつつある「ノイズ」をもう一度下界へ引き摺り下ろす試みだと思いたい。内容は前号で他の方から紹介されたDegenerating Finlandと同様に「時代遅れ」、「退行現象」である。音質の悪さは某参加者からすらもクレームが出るほどだ。ただ、その参加者には悪いが、その音質の悪さすらも引き受けるほどの雑音魂があってこそこの作品を聴くに値するリスナー足り得るのではないかと思う。
この作品は自分がお洒落になったような錯覚も頭が良くなったような錯覚も時代の最先端にいるかのような錯覚も貴方にはもたらさない。この中にあるのは我々の隣人の怒りであり、呪詛の声であり、明日への声である。中に収められたCON-DOMやThe Greywolvesの凄まじいまでの熱気と怒りは我々となんら変わらない一般庶民の怒りとエネルギーであり、決して人を煽り、自分は高みの見物をしゃれ込む御用芸術家などの戯言などではない。又、何も見えないふりをして享楽に身を捧げる自称芸術家のお遊びでもない。我々同様、世の中の奔流の中で生きて、物事を真剣に考え、苦悶し傷つきながらも自らの良心に従って生きる男達の「Transmissions of Power」である。20世紀の最後に合わせたかのようにこんなコンピをリリースする。矢張りOpen Woundは只者ではなかった。
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全く音内容に触れられていないが虚飾を排したパワーエレクトロニクスの佳曲が並ぶ名コンピ。この辺りから「ノイズ」から「パワーエレクトロニクス」というジャンルが明確な形で派生し始めたように思う。
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the Grey Wolves - Sufferance
GWであれば他に紹介すべき作品は多いと思うがまずは文化テロリストの名刺代わりといった風なこの作品を紹介してみたい。
このテープはカバーに寄れば1988年の10月にリリースされたようであるからTESCOからの1stLPに先立つこと4年ということになる。恐らくは現在の様にそうは名を知られていなかったであろう灰色狼が当時取った戦術はまさに近現代の扇動的な宣伝術の通り、[ the Grey Wolves ] という名をラジオ放送局、カセット出版社及びその発行する編集盤に出来る限り多く残すように努めるというものであった。外側カバー部分に緊急時の取り扱い方法の如く書かれた3行の指示事項にはこうある。
・ラジオ放送局は好きなだけこのテープを使用すべし
・編集盤編集者は好きなだけこのテープより引用すべし
・レーベル各社は好きなだけこのテープをコピー、配布すべし
(NO COPYRIGHTという文言も内カバーにあり)
音内容は当然大衆社会への浸透を企てるものであるからありとあらゆる灰色狼の”スタイル”(カバーの記述より)が収められている。サイド1は曰く「アトモスフェリック、リチュアル風、気軽に(!)聴けるような楽曲を収め(実際、Tesco時代の彼等しか知らない人間からは想像もつかないくらいの作風の物もある)、サイド2には「より激しく、ダークでハーシュ&ハードなエレクトロニクス」を収めたとある。
ここまで書いて気になるのは当作品がどの様に流通経路に乗ったかにあるが残念ながら私自身もどうやってこの作品を手に入れたのか記憶にない。モダ~ンミュージックであったか、いつの間にかポストに投げ入れられていたのか・・・。またジャケットのSUFFERANCE(辛抱、苦難、寛容などの意)の部分にdiscogsのジャケ写と異なり黄色いマーカーで色が塗られているのは三文スパイ小説に出てくるような何かのメッセージであるのか・・・。
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Whitehouse - Dedicated To Peter Kurten
古典的名盤と言えば私の中で絶対に外せない一枚。この作品ばかりは私が「SPK,TG,WHITEHOUSEの話はもううんざり。いい加減に今の話をしろ」(まあ要は聴いてないのだろう)というスタンスではいるものの紹介しないのは余りにも不公平と思う。
「カーン」と教会の鐘の音が時を告げる中、忌まわしい擦過音が始まるともうその時点でスピーカー周辺の空気が変わる。アナウンサーがヨークシャーリッパーことペーターサトクリフの逮捕を報せる。擦過音は時々唐突に爆発し、曲の終わり頃に女性の呟きと発作的に発せられる狂声が絡み合う。以降はこの狂声と高音低音ノイズと水音などが奇跡的に(当然、作為的に作っているのだろうが奇跡のレベル)融合し、「殺人鬼にこの形容を使う俺ってcoolだぜ」などという厨二病的スタンスではなく心から「美しい」とまで思わせる「音楽」的な(若しくは音響彫刻的な)モニュメントが屹立している。
その主題、WHITEHOUSEに纏わるスキャンダラスなゴシップなどからこの作品は常にキチガイ様御用達であり続けるのだろう。この作品の「狂」の部分に惹かれたキチガイ様達。彼らがこの作品を何度も聴き、その大暴力の向こう側にある美しく統合制御された世界に気付き、「ああ、こういう狂気の表出方法もあるのだ」と考え、表面的真人間になる、またこれからもなり続けることを願ってやまない。
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非常階段ー蔵六の奇病
今まで何度も再発された古典的名盤。再発盤は殆ど所有しているが私が最初に購入したのはアルケミーからの再発盤。GOLD ROCK SERIESというカッコ良すぎるシリーズ名を付されてリリースされたが確かにその内容は「GOLD」の名に相応しいものである。ここではオリジナル盤に基づき六曲目までを紹介する。
フェイドインしてくるゲロの中盤の盛り上がりが素晴らしいマントヒヒ(大阪)での一曲目。どこでもないどこかからサックスが鳴り出し、それに気持ちの悪いリズムと何かをぶっ叩くような音が絡み付く磔磔(京都)での二曲目。ドラムとキーボードが淡々と鳴り出し、それにノイズ等が絡んでいきどんどんと演奏が混沌としていく創造道場(大阪)での三曲目(フェイドアウトするのが何とも惜しい)。砂嵐の様なノイズに無骨なベース音が被さり、ノイズが拡散してきた所で堪らなく格好良い咆哮が始まり終焉へと向かう新宿ロフト(東京)での四曲目。「ザ・キチガイ」、「ザ・ヤバイ」と言った感じの素晴らし過ぎるシャウト(誰もそんなことを聞かないだろうが「ノイズで一番凄い叫びは」と聞かれてぱっと思い浮かぶのがこれ)から始まり、「デンキブラン(の演奏)じゃないか」と全然違うバンド名を騒音に負けじと二度も友人に大声で叫ぶ観客、「アー!」とか「ウォー!」という声が時々聞こえていた中、ふと演奏が止まり白々しい「アンコール、アンコール」の掛け声が始まる慶応大学(神奈川)での五曲目。いきなり演奏が始まりその向こうで狂騒状態が繰り広げられているであろうことが感知できる種々の音(叫び声、笑い声、打撃音など)が聞こえ、「怖いわそれ、怖いっちゅうねん」、「お前ら、アホー」、「おいおい、おいっ、おいっ!(声がだんだん切迫感を増してくる)やめろ、やめろ」などの名場面を挟み、メンバーの「終わりだよこの野郎!」という怒声と観客の「終わったみたいですな」という何とも間の抜けたコメントがクロスオーバする同志社大学(京都)での六曲目。恐らく当時の非常階段はそのパフォーマンスで耳目を集めたのであろうが、「目」=ヴィジュアルだけでなく、「耳」=サウンドもまた卓越したものであったのがよく分かる一枚である。
ブックレットの写真を見るとその場に居たならばとても演奏をじっくり聞ける状況ではなかったと思われるので、レビューを書けるほどにその音に浸れるのは嬉しくもあるが、その場に居れなかったということは悲しくもある。次は発売四十周年記念盤が出るだろうがまた購入するだろう。
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HEK・ATE-Sonnentanz
若し「あなたが知っている中で一番ドイツらしいバンドを挙げろと言われたら何と答える」と問われれば私はこのバンドの名を挙げるだろう。その理由は主に過去の旅の記憶と私のドイツ抵抗運動への関心から来るものだ。工業国のイメージが強いドイツであるがその大都市を結ぶ鉄道に乗れば美しい自然や一面の麦畑が広がっているのを見ることが出来る。大都市間の街を巡ればそこには必ずどこかしらに教会がありベルリン等の巨大都市とは異なる程良い空間がある。またナチス一色に塗り込められたかのような近代であっても目を凝らせばこの作品のジャケットにあるエーデルワイス海賊団の存在や、先ごろ公開された「ゲッベルスと私/a German life」で100歳を超えた老女をして戦後数十年を経てまでもなお「糞」という言葉を伴ってまで、その行為を侮辱させた抵抗運動体「白バラ」(音楽つながりで言えば大家LJDLPが彼らに一作丸ごとを捧げており、同名のネオフォーク系バンドがデンマークにいる)がいる。その老女曰く、「あんな糞みたいな紙をばらまいて殺された」(馬鹿共と言いたかったのだろう)・・・。
彼等の作品に感じるドイツ性は私が持つそんなドイツのイメージ、麦畑、中小の都市、各種抵抗運動体からくるものだ。インダストリアルに付き纏う病理や事実の重さはそれぞれの国の現在を反映しているにしても矢張り根底に流れる通奏低音はその発生源がほぼ同一である為、似たような響きを持っている様に思う。翻って自身の国民性、歴史、神話をイメージの源泉とするネオフォーク系アーティスト達には前者と比べてその国毎の特色が色濃く出ているように思われる。そういう意味で正にHEK・ATEはワンダーフォーゲルのドイツであり、エーデルワイス海賊団のドイツであり、白バラのドイツである。
現今、彼等の様に「考える事は自由である」とか「Freiheit!(自由)」とストレートに叫ぶようなuncoolな真似をする人は極少ない。世の中を容赦なく断罪するインダストリアル勢なら尚更であろう。この両者に共通する態度があるとすれば、それは「自己に忠実であること」。片やインダストリアル勢は都市の灰色の中で自らを情報発生源として徒労に近い地下活動を行い、一方のHEK・ATEは世間の遙か上空を己の理想主義とロマンチシズムを両翼として逍遥し、人々の視線を上へと向けさせようと試みる。地下と天空、視線が向く先は正反対だがその視線が何時か交わる時が来るだろうか。
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Anna Gardeck-Bondage women
女や子どもが手を出すとそのジャンルはダメになると言う非常に差別的な言説がある。当然ながらその様な矮小な偏見を乗り越え屹立する芸術家や表現者たちは各ジャンルに見られ、所謂インダストリアル界隈にも同じようにいる。Maria Zerfallしかり。またこのAnna Gardeckしかり。プロフィールをそのまま信じるならオーストリアはウィーン在住の彼女が残した唯一のこのアルバムは完璧に「作品」として世に残るものだ。
序盤の不分明なホワイトノイズの粒子が次第に形を成していき、規律正しいリズムとそれを切り裂く金属音となる。そしてリズムは段々と激しくなり曲名通りRitualな雰囲気を醸し出していく。その先もアルバムは不気味な機械音系のドローン、荘厳で宗教的なドローン、原始的な太鼓の音、不可解な呪文の様な声(?)と機械が発する声が雷鳴の様なインダストリアルサウンドと共に展開していく。最後はラストに相応しいクラシカルな男女合唱から始まるがそれはやがて工業音の波間に消え、以降は旋律が切れ切れに聞こえるのみ。そのうねる様な大波が殆ど余韻を残さずにすーっと引いた後に男女合唱のラスト部分が流れる構図は非常にドラマチックで印象に残る。
BDSM門外漢であるからそう思うのか知れぬが不思議な事にここにはSMという言葉から私がイメージする「肉体」を思わせるものが全くと言って良いほどない。思い浮かべるのは「インダストリアル」という言葉、若しくは「神」。肉体を超越しているという所が共通である2つの単語であった。
PS。
CDR2種とLPを所有していたがCDRの内の1種はお亡くなりになった。作品を残す気概のある方は是非このCDRというメディアは避けていただきたいと心から思う。
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