NOEHAEM (2023年 digital) - Anenzephalia

「お前の手持ちの音楽作品を1つ除いてすべて処分しろ」と言われたら迷うことなく手元に残すであろうこの一作。内容はもちろんの事、デスインダストリアルを体現するもの、また自分自身のこれまでとこれからを託す作品=シンボルとしてこの作品は貴重な物なのだ。

2003年にリリースされた三枚目のアルバムの20周年として再発された作品は時代の流れ(Anenzephaliaのレビューであれば進歩とは言うまい)に沿い、ネット上でも聴けるように手配がなされた。いつぞやに「ネットの弊害を言う者もいるが逆にネットがあるからこそ反ネット的な言説を多くの人に伝えることが出来る」という文句をどこかで読んだ。その言が正しいか否かは瞬時に判断することは出来ないがネットとその使用機器が広範に行き渡り、高性能化しておりネットが提供するものもそれに伴い変化していることによって人のAnenzephalia化=無脳症化が加速化していることはほぼ間違いがあるまい。

その20年の間の変化に危機感を持ったのか、「俺は20年間努力したが世の中は変わらなかった」と言って音楽活動を止めた彼はこの作品を単なる再発ではなく、世の変化に対抗する形で再生させた。比較対象の結果は記さないが内容が大きく改変されているのである。1stEPを思わせるようなどんよりした雰囲気に機械化された痴呆の声が被さるオープニング、作曲者は聴者や世の中全般を呪い殺そうとしているんじゃないかとすら思える腐敗物から立ち昇る瓦斯の様な濁音が寄せては返す場面、「機械」のような非情さと「官僚組織」的無情さの両方で「人間」を追い込んでいく場面、何もない世界でただ「工業的発展」と唯繰り返される場面、建築現場の様な規則正しい騒音の中で何らかの報告が行われる場面(歌詞が聞き取れると良いのだが、、、)、感情を持たぬ何かがゆっくりとこちらへ向かってくる場面、そして何も起こらないエンディング。

正に、私にとって、「デスインダストリアルとはかくあるべし」という作品である。前回も書いたが「インダストリアル」を語る際に未だTG,SPKで終わっており、それ以降の事が全く顧みられないのは所謂、評論「屋」の怠慢でしかあるまい。話を戻す。このデジタル化に伴う再生版の白眉は何と言ってもNOEHAEM Vの映像である。全ての人間的風景は髑髏のマークにかき消され(ベタな演出だなあなどと言う輩は彼の危機感を理解していない)、監視塔の様にテレビ塔が屹立する。「工業的発展」と言う言葉が何度も繰り返される。NOEHAEMとは「最早、新しい家(社会)など無い」というB.Molchの警句であることが思い起こされる。ビデオが終わる場面、本来楽しい遊び場にいるはずなのに何かの異変に気付いた子どもの怯えを含んだ顔が映し出される。こうまでしないと分からない無脳症達への少数者からの極めて分かり易い伝達事項である。