Genocide Organ - Live In Japan 2003/2007  pt.1

ライブの打診が会ったのはWilhelm Herrich(以下WH)から。電子雑音を通じてインタビューやショップ用の商品を取り寄せるなどの親交がありました。ライブ開催の経験がなかったため電子雑音の田野さんへ相談。以降、彼とのやり取りは私が行い、都度田野さんと手配していくという形を取りました。その中で後に弊社社長となるNoiseuseさんも活動に加わっていきます。フライヤーのアートワーク系は電子雑音のNさん(私のような新参者以上にGO来日には感動されていました)にお願いし、文章は私が担当。「帝都制圧」というコピーも私発案かもしれません。「電子雑音」を念頭に置き漢字四文字に拘りました(後のライブも全て同じ。帝都音社も虐殺機関も同様)。
対バンに関しては同じ様なバンドが当時の日本にはおらず苦慮していたところWHからCon-domを紹介されました。バンドとしてのプレゼンスの大きさも、日本までのチケット代の負担を考えると一人で来てくれる事も非常にありがたくほぼ即決で対バンは決定しました。普通であれば日本側のバンドも迎えるところですがそこは社長と私が「2バンドで十分」と主張し、それがそのまま通ったような記憶があります(この考え方は後の帝都シリーズも同様)。あるバンドから売り込みがあったらしいですがそれは社長が断ったとも後日聞きました。
来日時に出迎えたのは私と当時、電子雑音のお手伝いなどをしていたKさん。英語に加え、ドイツ語も話せるので手伝いをお願いしました。来日はCon-domとGenocide Organとも同じ日でした。先にMike Dando(Con-dom)が到着。そのままリムジンバス乗り場へ案内。新宿へ行ってもらいました。新宿のバスターミナルで田野さん他と落ち合う段取りです。Mikeは兎も角、Genocide Organご一行は顔がよくわからず、また怖い人だったらどうしようということで私とKさんは「緊張するね」言いながら手に汗をかいていました。それでも出国ゲートから出てくればまあそれらしき人はわかるもの。こちらもそれらしい格好をしていたのでWHがこちらを見つけ目が合った途端、ニッっとしてくれたので一先ず安心。その後、Kさんとの打ち合わせ通り「今回の来日により骨を折った横山が先に握手をする」事となり、見事「初めてGenocide Organと握手した日本人」となったわけです。握手の際に「Finally」とWHが言ったのを覚えています。世の中が狭くなったとはいえ矢張りはるばる日本までライブに来た感慨があったのでしょう。
その後、全員で当時代々木駅から歩いて15分ほどの所にあった電子雑音ショップへ向かいました。駅から店の間に日本共産党の建物がありそれで盛り上がったことは言うまでもありません。
(後日談;弊社社長から教えていただいたのですが当時ショップのあったビルのオーナーが三島由紀夫の知人であり、三島本人もそのビルを訪れたことがあるようです)
(余談:メンバー全員、Mike、Tesco USAのJaneなど殆ど来日した全員が編み上げ靴を履いていたのでショップへの出入りにものすごく時間がかかったのを覚えています)
彼等の宿泊先は田野さんのお宅でした。