1884年(明治17)年10月31日~11月9日に起きた「秩父事件」は、「自由民権運動が発展的に向上する過程で発生した闘争」という見解が定着して久しい。

だが、現在でも「所詮は百姓一揆」「博徒の暴動の類」と見下すものもいる。

地元にも「余計なことをやってくれた」と否定的な意見も根強く残っている。

 

 この事件後、俗に世間師と呼ばれる輩が「強いものに盾突くことは愚かな行動だ」と各地で諭して回ったという。

この影響が存外大きかったのだろうか。何処の組織でもしたり顔でそんな役割を演ずるものがいる。

 最近の日本人は権力者をやたら恐れ、追随する傾向がある。だが秩父事件が起きた当初の秩父地方にはおおよそ今の日本人とは違った思考を持った人々が存在した。それは、山々に囲まれた盆地が辿った歴史的経緯に由来するものだろう。

 

 そもそも「一揆」と「自由民権運動」、これは相反するものなのだろうか。

 

一揆の「揆」とは、道、やり方、方法を意味する。

「揆(軌)を一にする」とは「同じやり方をする」ことであり「連帯、同盟する」という意味に派生した。

 

 もともと南関東地方は「一揆」の地であった。絶対的権力者が多数の農奴を隷属させていたわけではなく、一種の独立自営農民的な地侍の連合体だった。戦国時代の後北条氏は一揆の上に成立した地方政権であった。

 徳川幕藩体制が確立した後、関東平野部は大規模な水利工事が行われ大きく支配体制が変貌していく。だが秩父地方は中世の独立自治的な気風が残っていた。秩父事件の主導者たちの多くは、後北条氏時代の地侍の末裔で中間階層の出であった。

 

 そうした秩父地方は生糸の生産を通じて早い時期から商品経済を受け入れ、広い市場と結びついていた。

「我々が経済を支えている」という意識が高まり独立自治の気風をいっそう強めた。その延長線上に「権利自由」の考えが現れる。つまり、秩父地方には「自由民権運動」を受け入れる素地があったのだ。

 

 幕末の開国後、養蚕は我が国最大の外貨獲得産業となり、秩父の生糸もリヨン市場を通じてフランス、ヨーロッパの顧客と結びついていた。さらに明治時代になると、それまで家内制手工業であった養蚕業もだんだん機械化が進み、品質向上、量産化が図られていった。

 同時に、初期投資や不足気味の食糧購入に金が必要なため金融業者が出入りするようになった。富農が貸すケースもあったが、悪質な高利貸しも出現した。

 この段階で独立自営民たちに階層分化が生じつつあった。折も折、この時国際的に生糸価格が暴落した。

追い打ちをかけるように国内ではデフレ政策が進められた。明治政府は、西南戦争などで乱発しすぎた不換紙幣を回収して財政健全化を目論んだのだが、結果的にこれが養蚕業者を直撃した。階層分化に拍車をかけることになった。

 

 このような時、自由主義は先鋭化する。秩父事件は、自立志向が高い中間層が貧困層に脱落しかけた時に発生した。人々は国策に異議を唱えるため、自由民権の旗を掲げて決起したのである。不真面目な農民が博徒に荷担して打ち壊しをした、という政府のデマゴーグの内容とは全く性格が異なっている。彼らには明確な政策があり、立憲主義を軽視した独裁的な政権の崩壊まで模索された。

 

 現今異次元の金融緩和が政策として進められてきた。しかし、早ければ今年2023年の第二四半期あたりから金融政策の修正が図られ、やがては財政健全化が本格的に検討されるだろう。

歴史はこのような時に格差が拡大することを伝えている。

 140年前、秩父困民党は現在の「格差是正」に相当する「世均し」を主張した。

秩父事件の意義が問い直されなければならない時期が到来しているのだが、現在の反骨精神の担い手立ちにはあまの迫力が感じられない。