皆様には、始めに、今回の記事が、昨夏、病没した父の遺品を整理した中から出てきた
写真のお話であることを申し上げておきます。
なんだ!まだ、遺品整理してんのか!!
親父とゆー私的なことで、ブログのネタにするとはフトドキセンバン!!
お叱りはなんとでも・・・私のペースですから(開き直るのやめよーよ・・・)
とゆーことで・・・
。。。。。。。
*カラス家の引っ越しの件
私の父は46歳で自営業者になるまで地方公務員でありました。
2-3年ごとに、転勤があるわけです。
半世紀前なんて単身赴任などあまりなかった時代ですので、
当然、家族も一緒に引越し。私は転勤族のオヤジについて小学1-3年まで
北海道の南西部、後志管内壽都町で
育ちました。昭和38-41(1963-66)年のことでした。
*壽都町の件(1)
壽都町は、昔は鰊で多少は知られた町でしたが、道民の方、少し古手(失礼!)の
鉄道愛好家の方でなければ、今はご存知の方も少なくなったと思います。
壽都は読み仮名は「スッツ」でアイヌ語由来で「スッツ」・・・と申しますと、面白くも
おかしくも有りませんで、古くは「シュプキペッ=矢柄に用いるカヤのある川」と
伝えられております。確かに「スッツ」とは似ていなくもありませんが、どー考えましても
近くを流れます、「朱太川しゅぶとがわ」で、一度「大和言葉に近く」されて、
もう一度、「しゅぶと⇒すっつ」とされたようで、それを考えますと夜・・・は大変よく
眠れます。もちろん私のアテズッポーですが(いばるな!)・・・
と申しますのも、北海道の「川を示す」地名でアイヌ語から漢字を当てた時に3つのやりかたが
ありました。
・ベツ・・・流れが急な川、登別、札幌(えっ?!実は豊平川の<さとぽろぺっ>の短縮当て字です)。
・ナイ・・・河口付近の流れがゆったりしている川
・川・・・***である川、とアイヌ語を和語に訳してしまった地名もありました、砂川など
話を元に戻しますが、この朱太川、晩年の壽都鉄道の中間部、樽岸ー湯別間の道床を、大型低気圧が
来襲してきた昭和42(1967)年、ほとんど根こそぎさらって行き、普段から青息吐息の同鉄道にとどめを
刺しましたが、もともとが「シュプキベツ」と呼ばれるにふさわしい暴れ川でありました。
*壽都町の件(2)
壽都町は海岸段丘の街で、鉄道は一番の高台を走っておりました。
漁業から発展しておりますので、港に近い海沿いの道路が以前の国道で旧市街。
今の国道はその道路から山側で、従来からあった地方道を整備、格上げしたものです。
2本の道路の間にもう一本商店街をなしている道路、国道の上にも、住宅街を形成している
道路など、場所によって多少異なりますが、3-4本、等高線のように町の主要道があり、
おそらく断面を見ると、各々の道路沿いになしている建物群は階段のようになっていると思います。
ず~っと昔から思い出したように隆起など繰り返してきた「海岸段丘」の町なのでしょう。
私が通学していました小学校のグラウンドは2段になっていました。
また強風を避けるかのごとく、小・中学校の建物は平屋、高校は小高い丘の上に、
木造建築ながら、国道から少し上り坂のアプローチを登っていきますと、
国道方向に長手で、貫禄の2階建で、地域の「看板学校」という立ち姿でありました。
*父の遺品とは?
壽都鉄道本社社屋は壽都鉄道の路線及び駅舎とともにやはり段丘の高台にあって、
小ぶりな個人宅が多い街の 景観の中では偉容をはなっておりました。
その建物は、田舎のちょっとした企業の本社としては、可もなく不可もなく平均的な一部2階建て
建造物であります。
その、建物の写真が出てまいりましたのが父の遺品であります。
端がだいぶ色焼けしてカッコ悪いのでトリミングしてあります。
撮影者は父と思います。撮影日は?昭和39年とだけあり、月日が書いておらず、こーゆー
イー加減なセーシツが私に遺伝したのかー・・・と思うとやはり「ガッチャリ」しますね・・・
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壽都鉄道本社社屋
階下は連続窓です。地元の大工さんの作品だと言うのですが・・・
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実は左の写真の玄関手前左に大きな水たまりがあって、除雪用?に使ったと思われる
スコップを積んだ2tonトラックが写っていたのですが、それと木々の枝ぶりを見ますと、
3月中から下旬かな??と思われます。
しかし、あとで知って驚いたのは、この建物、地元の大工さん作?で、ほぼ2階建て、
階下は連続窓風の下見板張り、向唐破風様。なかなかシャレている上に、少し強風の土地の
建物としては華奢かな?とも思います。
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向唐門:Wikipedia「門」から
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80
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また
一番下に「最大風速(最大瞬間風速と違って10分間の平均風速)」の表をお示ししましたが、
(気象庁記録)ベスト20(ワースト20?)に津軽海峡以北で唯一壽都だけがランクインしております。
そういえば、小・中学校、も平屋、高校は木造2階建てなどと書きましたが、あれは風対策だったんだね!!と
気づいたのは、転居してから1年以上たってからでした。
*壽都鉄道、出だしはジュンチョーだったんだけどねー・・・
初代北海道鉄道(函館ー南小樽)により函館・小樽間が全通した時[明治38(1905)年]、
当時漁業で栄えていた町から北海道鉄道に連絡したいと申請書が政府に出されました。
江差、瀬棚、壽都、岩内が名乗りを上げましたが、この中で自力で北海道鉄道までたどりつける
財力をたくわえていた町は壽都のみでありました。
他の自治体は御存知のように鉄道省が路線を敷設しております。
☆ご存知のように、昨年の江差に至る鉄道が廃線となり、国鉄・瀬棚線、同・岩内線はすでに
廃止となっており、旧・国鉄3線は全部過去帳入りしました。
さて、壽都鉄道鉄道線ですが、昭和42(1967)年から昭和47(1972)年の休止期間を経て廃止。
ところが「正式な商法上の会社組織が解散したのが昭和62(1987)年7月20日ー岩内線と接続して
函館線をバイパスを形成する計画もあったため、会社解散が、岩内線廃止(昭和60年)後
となりました。。
その後も清算事業団が存在しましたが、これも商法で、解散決議から10年たつと、登記官の
の権限で「生産結了がなされていなくても、閉鎖は可能」ということで、
平成6(2004)年3月8日「登記簿閉鎖」の手続きがとられ、事実上やっとおちついたよーです。
寿都鉄道Wikipedea
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E9%83%BD%E9%89%84%E9%81%93
☆壽都・黒松内間16.5kmを一部小樽や札幌の資本が入りましたが、ほぼ独力で全通させたことは
奇跡に近い偉業である(と、小学校の郷土の社会科で習いましたが、所謂「大本営的発表」では
なかったかと今では考えております)らしく、地元紙をにぎわせたとか。
「半分うそくさい」と思いながらも、「おらが町の名を<ことぶきのみやこ>と字を当てた」ところに
やはり、当時のジンジョーではない繁栄が見え隠れいたします。
*そして一時期は地方の拠点として活躍・・・
当時漁業で栄えていた町から北海道鉄道に連絡したいと申請書が政府に出されました。
江差、瀬棚、壽都、岩内が名乗りを上げましたが、この中で自力で北海道鉄道までたどりつける
財力をたくわえていた町は壽都のみでありました。
他の自治体は御存知のように鉄道省が路線を敷設しております。
☆ご存知のように、昨年の江差に至る鉄道が廃線となり、国鉄・瀬棚線、同・岩内線はすでに
廃止となっており、旧・国鉄3線は全部過去帳入りしました。
さて、壽都鉄道鉄道線ですが、昭和42(1967)年から昭和47(1972)年の休止期間を経て廃止。
ところが「正式な商法上の会社組織が解散したのが昭和62(1987)年7月20日ー岩内線と接続して
函館線をバイパスを形成する計画もあったため、会社解散が、岩内線廃止(昭和60年)後
となりました。。
その後も清算事業団が存在しましたが、これも商法で、解散決議から10年たつと、登記官の
の権限で「生産結了がなされていなくても、閉鎖は可能」ということで、
平成6(2004)年3月8日「登記簿閉鎖」の手続きがとられ、事実上やっとおちついたよーです。
寿都鉄道Wikipedea
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E9%83%BD%E9%89%84%E9%81%93
☆壽都・黒松内間16.5kmを一部小樽や札幌の資本が入りましたが、ほぼ独力で全通させたことは
奇跡に近い偉業である(と、小学校の郷土の社会科で習いましたが、所謂「大本営的発表」では
なかったかと今では考えております)らしく、地元紙をにぎわせたとか。
「半分うそくさい」と思いながらも、「おらが町の名を<ことぶきのみやこ>と字を当てた」ところに
やはり、当時のジンジョーではない繁栄が見え隠れいたします。
*そして一時期は地方の拠点として活躍・・・
北海道は御承知のように14支庁体制(現在はさらに14振興局体制)が長く続きましたが、
明治30(1897)年から同43(1910)年までの13年間、北海道は18支庁制を敷いておりました。
「壽都支庁」がおかれ、寿都、歌棄ウタスツ、磯谷、島牧の4郡を管轄することになりました。
と言っても、歌棄、磯谷は昭和30(1955)年の昭和の大合併で壽都町の一員となり、
西隣の島牧のみ現在も村として独立しており、「支庁」と言っても現在の壽都町の行政範囲と
大差ない範囲でした。
それでも、この間の壽都支庁の人口は22000-23000人で、
司法、立法、警察、消防など一通りの官公署がそろいました。
しかし、その勢いも、大正6年をはじめとする、昭和2,12,22に不漁でありまして、この間もじりじりと
漁獲高が低下、遂に昭和29(1954)年を最後に群来(くき、大魚群)は来なくなりました。
●気象庁データから
大正6年から昭和22年・・・1917-1927-1937-1947-年ですが、5年周期の北極ー南極振盪の強弱の
入れかわりの2倍ですから、北極か南極かどちらかの振盪がつよかったのでしょーか。
10年周期の不漁と何かかんけーありですか?
まー、気温の高低がすぐさま海水温に反映するってもんでもありませんが見てみますか・・・
水温が上昇称すると、寒流の勢いが弱くなるので、潮目も北上します。
1日平均気温(℃)
1916(8.5)-1917(8.5)-1918(8.1)
1926(7.9)-1927(8.2)-1928(8.6)
1936(8.0)-1937(8.1)-1938(8.5)
1946(8.8)-1947(7.7)-1948(9.5)
1953(7.8)-1954(7.8)-1955(8.7)
特に不漁年に変わったところはなさそうですねー・・・
昨年末の基本台帳は3259人でありました。ことぶきの都も小振りになりました。
壽都鉄道は、始め下町に路線を敷き、貨客とも、繁華なところから、人を積み
港からニシンを積み・・・といった路線敷設願いを出したのですが、
当時のオカミから
①海岸線沿いの軌道敷設はロシア海軍の艦砲射撃の恰好の目標となりうる。
②日本海海岸鉄道を計画した場合、瀬棚方面は、海岸線に路線式を確保すべき
適切な広さの土地を確保するを能はず。
貴社は(瀬棚地区のために)やや高地に軌道を敷設すべし。
とゆーことで、寿都駅は北東の町はずれに設けられました。
ところで、すっつー旧・瀬棚町の間の「茂津多トンネル:国道229号、2000m級のトンネルで、
トンネルの途中に「スッツ・セタナ」の境界線の看板が出ていました」
そのほかも山がちの土地、うっそうとした木々。
一体、当時の技術で寿都・瀬棚は鉄道敷設で何年かかったのか?
もし、線路が敷けても何人乗ってくれたか?
*茂津多:「モツタ、付近の方々の発音は<モッタ>」
上のオカミの注文書、①は「そーかもね」と思うが②は完全にいじめでしょ?
☆南後志を訪ねて、Wikipedia(寿都町、後志支庁)を参考にいたしました。
*****************************************************:
最大風速:10分間の平均の風速です。
明治30(1897)年から同43(1910)年までの13年間、北海道は18支庁制を敷いておりました。
「壽都支庁」がおかれ、寿都、歌棄ウタスツ、磯谷、島牧の4郡を管轄することになりました。
と言っても、歌棄、磯谷は昭和30(1955)年の昭和の大合併で壽都町の一員となり、
西隣の島牧のみ現在も村として独立しており、「支庁」と言っても現在の壽都町の行政範囲と
大差ない範囲でした。
それでも、この間の壽都支庁の人口は22000-23000人で、
司法、立法、警察、消防など一通りの官公署がそろいました。
しかし、その勢いも、大正6年をはじめとする、昭和2,12,22に不漁でありまして、この間もじりじりと
漁獲高が低下、遂に昭和29(1954)年を最後に群来(くき、大魚群)は来なくなりました。
●気象庁データから
大正6年から昭和22年・・・1917-1927-1937-1947-年ですが、5年周期の北極ー南極振盪の強弱の
入れかわりの2倍ですから、北極か南極かどちらかの振盪がつよかったのでしょーか。
10年周期の不漁と何かかんけーありですか?
まー、気温の高低がすぐさま海水温に反映するってもんでもありませんが見てみますか・・・
水温が上昇称すると、寒流の勢いが弱くなるので、潮目も北上します。
1日平均気温(℃)
1916(8.5)-1917(8.5)-1918(8.1)
1926(7.9)-1927(8.2)-1928(8.6)
1936(8.0)-1937(8.1)-1938(8.5)
1946(8.8)-1947(7.7)-1948(9.5)
1953(7.8)-1954(7.8)-1955(8.7)
特に不漁年に変わったところはなさそうですねー・・・
昨年末の基本台帳は3259人でありました。ことぶきの都も小振りになりました。
壽都鉄道は、始め下町に路線を敷き、貨客とも、繁華なところから、人を積み
港からニシンを積み・・・といった路線敷設願いを出したのですが、
当時のオカミから
①海岸線沿いの軌道敷設はロシア海軍の艦砲射撃の恰好の目標となりうる。
②日本海海岸鉄道を計画した場合、瀬棚方面は、海岸線に路線式を確保すべき
適切な広さの土地を確保するを能はず。
貴社は(瀬棚地区のために)やや高地に軌道を敷設すべし。
とゆーことで、寿都駅は北東の町はずれに設けられました。
ところで、すっつー旧・瀬棚町の間の「茂津多トンネル:国道229号、2000m級のトンネルで、
トンネルの途中に「スッツ・セタナ」の境界線の看板が出ていました」
そのほかも山がちの土地、うっそうとした木々。
一体、当時の技術で寿都・瀬棚は鉄道敷設で何年かかったのか?
もし、線路が敷けても何人乗ってくれたか?
*茂津多:「モツタ、付近の方々の発音は<モッタ>」
上のオカミの注文書、①は「そーかもね」と思うが②は完全にいじめでしょ?
☆南後志を訪ねて、Wikipedia(寿都町、後志支庁)を参考にいたしました。
*****************************************************:
最大風速:10分間の平均の風速です。

35m/secで四つんばいになっていても風の力であおむけにされるそうです。
壽都町に住んでいたおかげで、少々の風速には驚かなくなりましたが、
秒速35mというと時速125kmでナカナカユーソクな特急列車の速度ではありませんか?!!
さらに49.8m/secと申しますと、179.3km/hrとなり、速達便ではない新幹線車輌の
表定速度に匹敵?といったところでショーか??
ところで連続窓の本社社屋ですが、風通しをよくしすぎておいてよくふきとばなかったものだ、
と地元の大工さんの腕前に感心シキリでありました。
***********************************************
ローカルなジミネタで申し訳ありませんでした。
最後までおつきあいくださった方、ありがとうございました。
<失礼ながら追伸です>
壽都は雨や雪が地面から巻き上がるように降ってくると伝わっている向きも
あるようですが単なる誤報です。
壽都においでになるときは、傘は頭の上にさしていただければ幸いかと愚考
いたします。
カラスのクンセイ 拝